西洋近現代思想と仏教


西洋近現代思想と佛教(宗教的に 4)

真の道徳教育のために

序、高校公民科「倫理」で佛教を扱うにあたって

高校倫理で佛教を扱うにあたって、生徒に学んで欲しいことの第一は、凡夫としての自我に対しての省察を喚起し、道元が述『正法眼蔵』で「自己を忘れる」と述べたように、自我存在その深層にそれに従って生を営むべき本来的自己のあることに気づかしめることにある。佛教では、諸法無我といい、「我」など実体としては存在しないと説く。そして、世俗的な自我を打ち捨てて本来的自己に至るべきことを主張する。

だが、しかし、そもそも、世俗的自我とはまったく「無」意味な存在なのか。あるいは、本来的自己というのは「有」りうべき真なる自己なのか。ここに見え隠れするのは古今より東西で論じられてきた有無の問題でもある。

佛教思想が投げかけた問いは深い理解を必要とする倫理を扱うにあたって考察しておきたい項目であるばかりでなく、その取扱者自体が思索を巡らしておかなければ展開できない主題でもある。以下、無と有の関係について一考察を巡らす次第である。その際、西洋思想における論点と比較、吟味しつつ、佛教において際立つ特徴を浮き彫りにする。

1、フッサール現象学から浮かぶ限界

19世紀から20世紀初頭にかけて思想世界で大きな運動となったのが現象学である。その創始者であるE・フッサールが主として論究した主題の一つが「生きた現在lebendige Gegenwart」である。物は現在という時点において自我に対して最も生き生きと現れる。記憶のなかにある事物はただ意識においてのみ現出Erscheinung1するが、現在という時点に眼前にあり、生き生きと知覚されている事物は現実に確固として存在しているように思われる。この知覚作用を現象学的認識論に視点をあてて一考してみるなら、ただちに幾つかの疑問点が浮かぶ。

㊀現象学的認識は、その基本的な方法は、意識に現れる現象を意味として捉えることによって成立する。意識に現出する現象と意味との合致を『論理学研究』2では「心的作用」に依るものとしているが、この場合の「心的」に十全な根拠は求められるのか。フッサールは、「われわれが純粋記述の立場に立てば、意味によって生かされた表現の具体的現象は一方の、表現をその物理的側面で構成する物理的現象と、他方の、表現に意義を与え、場合によっては直観的充実を与える諸作用とに分かれるのであり、そしてこれら諸作用のなかで、表現された対象性への関係が構成される」(『論研』邦訳P48,Hua.19,S.37)と述べ、ただの心理的事実と客観的な記述との違いを明確にしているように思われる。しかし、「表現」となって現れる言葉の意味は多彩であり、表現によって媒介される対象と意味の一致が心的作用に求められるとするなら、それは心理的事実に属するのではないか3 。

意味そのものの性格を取り上げるなら、我々は、しばしば知覚、経験したことをいかに表現へと変換するか苦慮することがあるが、アナログとしてある現象は語彙の数をはるかに超えているがゆえに、デジタル記号としてある意味と合致させるには何某かの強制をともなわなければならない。フッサールはその作業を「意味賦与」(対象に意味を与えること)に求めたが、もとより対象世界と意識に与えられた意味との合致は不可能ではないか。意味は現出と現出者の紐帯として位置し、意味の妥当性は現象学的な「明証性」に求められるが、妥当性の根拠としてそれに先だって「意味」の意味4は問われなければならないと思われる。

後期現象学は現象の発生とともにそれを間断なく捉える方法を模索するが、それでも意識に現出が与えられるという枠組みが変わることはなく、対象である現出者はヒュレーHyle5と呼ばれる感覚素材へと性格を変えてゆくが、現出者とそれを把握する「私」の隙間が埋められることはない。

㊁対象が生ける現在において即座に把捉されるのかという問いはただ意味に関してのみ立てられるわけではない。感覚素材であるヒュレーがたとえ意識において直接的な素材であるとしても、その把握にはわずかとはいえ時間を必要とする。ヒュレーからの刺激である覚起Weckung)の(統一的)把握Auffassenには(あとからの)覚認Nachgewahrenを必要とし、同時には起こりえない。換言すれば、対象把握に関する限り、現象学は「現在」を現在において捉えることはできない。このアポリアは実はフッサール自身によって認識されていて、「現在」の隙間のない把捉のために「把捉的視Erhaschen」、「衝動的志向性Triebintentionalität」といった方法が考案されるが、対象と自我という二項対立の枠組みが維持されている限り、生ける現在が私の手元に届くことはない。もし現実的なものが本質的なものであるとすれば、フッサール現象学は本質からは閉ざされていることになる。それは現出という現象の彼岸に位置する現出者への問いとも重なる。彼岸への問いは、またハイデガーによって存在への問いへと性格を替えつつ行われる。

2、ハイデガー哲学から

フッサール現象学の後継者であるマルティン・ハイデガーは、高校「倫理」の教科書では実存主義に属する哲学者として扱われている。「ひとdas Man」は「死に至る存在 das Sterben」と定義され、時間的に有限的存在者であるから、寸暇を惜しんで自らの可能性に向けて企投せよと語られる。ここでは「現存在Dasein」が死に対向するものとして性格づけられる。死は先駆的に自覚されるものではあっても現存在との間には時間的な距離がある。死は、さしずめ無として現存在としての有Seiendesの対極にあり、両者が交わって働くということはない。佛教思想において、「死」はハイデガーとはまったく異なった視点で語られる。そこに西洋と東洋思想のパラダイムの相違が窺い知れるのであるが、それについては後述する。

ハイデガーは本来的には実存主義者ではなく、形而上学に取りつかれた思弁的な哲学者の一人である。その主要な関心事は「有Seyn」の開明にある。我々は日常的に「~はある」とか、「~がいる」といった言い回しをするが、「有る」そのものを見ることはできない。「有る」は凡ての動詞に骨格としてあらかじめ刻まれていて、具体的な事態を示す動詞へと変容して現れるが、「有る」それ自体は決して姿を見せない。「有る」を具体的な事物を挙げて例示することはできるが、「有る」とは何かと尋ねられても安易に応えることはできない。「有る」の解明が「形而上学」と呼ばれ、フランシス・ベーコンによって虚学とされた所以である。ハイデガーは、「有」が直接には経験できない事情として、それが「無」という帳の彼岸にあることを根拠とした。現存在は有Seinの性起Ereignis(現れ)を見守る存在者であり、その現れにわずかに触れることはできるものの、無が帳となって結局は有を目の当たりにすることはできない。存在するということの根拠である有がそれ自体としてありのまま存在者に開かれることは無い6。有は無の彼岸にあり、現存在に届けられつつ、届けられない。現象にかかわる問いをフッサールは認識論として、ハイデガーは存在論の問題として捉えた。研究の対象は異なるものではあっても、二項対立の枠組みを払拭しえていない点で限界を共有していることはここで留意しておきたい。

3、イギリス経験主義から

「観る」において、「有る」において、私は、それぞれ、事物そのものに、有それ

自体に達することはできない。この枠組みを高校「倫理」に移しかえて「私」を主題として換言するなら、私は私自身へと達することができない。この不可能性は一見すると形而上学の無意味を意味しているかに思われる。ニーチェは「神は死せりDer Gott ist tot」と宣言し、神(形而上学)を断罪した。また、イギリス経験論は科学的に形而上学否定を試みた。ジョン・ロックは生得観念を否定し、人はタブラ・ラサ(白板)の状態で生まれ、知はすべて経験を起源として生じると主張した。経験的知は感覚によるか、あるいは反省によるかであるが、両者が協働するとき、たとえば「・・・は甘い」といった判断に至り、観念が生まれる。その結果、想定されてしまったものが「実体」である。実体とは「それが何であるのか私が知らない何物かsomething I know not what」である。たとえば、砂糖を甘いと感じるとき、砂糖のなかに甘さを与えている何かがあるとは想定されるところである(中埜肇『西洋哲学史』放送大学テキストより)。しかし、我々はそれが何であるかを直接経験することはできない7。この実体とは形而上学が対象とし、また、フッサールが現象学で現出者として想定され、さらにはハイデガー哲学で語られているところの「有」に他ならないのではないか。直接的に経験できないものを是認してしまうことは、経験主義にとっては敗北に他ならないので、イギリス経験論はそれ以後バークリー、ヒュームと引き継がれて、実体の存在が否定されてゆくことになる。イギリス経験論に特徴的なのは形而上学的「有」の存在を暗々裏に認めながら、経験の届かない旨をもって理論上、なかば強引にその存在を否定したということにある。結果としては有の積極的な開明を試みたハイデガーとは正反対の立場をとるが、形而上学的な「それ自体an sich selbst」は、西洋の学術史の根柢にあって現代思想まで脈々と受け継がれてきたことが窺い知れる。

4、形而上学的「有」という概念の高校「倫理」での取扱い

教科書「倫理」で、劈頭、高校生に投げかけられる問いは自我の目覚めを喚起する「第二の誕生」についてである。それは自己との対話の始まりであり、一般的には私自身と言われるところの、言わば、内なる有、実体との対話である、私と私自身との関係は、ヘーゲル弁証法における即自an sichと対自für sichの関係であり、サルトルが「実存は本質に先立つ」と述べ、人間を決定されない対自的存在と定義づけたように、死んで物となるまでは決して完結しない関係である。

ジョン・ロックは経験的に「有」に気づき、それへと辿りついた。しかし、イギリス経験論は「有」の探究を、経験的には開かれてこないものとして拒否した。このことは、私自身は決して経験的には開かれてこないということを意味するのだろうか。もし、イギリス経験論が有の存在を拒絶するなら、世俗的有の本質も問えないことになろう。しかし、私は私自身であり、私自身を根幹として世俗世界で具体的に様々な在り方をしながら生きているのである。こうした問題提起に対して、ハイデガーは、実に真摯に向き合っている。「死に至る存在das Sterben」の自覚によって語りかけてくるのは「教科書」に記述されているような「良心」ではなく、その根底にある「有Sein」なのだ。私は私自身から送り届けられつつ、しかし決して送り届けられることはない。

「有」についての問いに耐えうるのはひとえに哲学のみである。たとえば、科学は世俗的「有」の探究を分析によって行う。それを方途として、たとえば、生命の起源をDNAとして判明せしめる。だが、分析という方法は研究対象を細かく砕きはするが、その正体を開かすには至らない。DNAが生命の起源であるということは判明せしめても、それがいかにして我々に「命」を送り届けるのかという問いには応ええないであろうからである。

世界のうちにあって、我々にはただ現象が与えられるのみで、分析をもってしてはその本質に至ることはできない。現象は感覚によって捉えられるので、世界を解き明かす手段はとりあえずは「感覚」に限定される。その意味でフランシス・ベーコンが形而上学を否定し、学の領域を科学的経験的領域に限定したことは正解であった。だが、現象を通してその根拠を透かし観ることへの試みは問いとして、方法論として成り立つ。また、そうした問いが生それ自体からの問いかけに正しく応答する方法であることを哲学は疑わないのである。

こうした閉鎖状況のうちにあって、私自身と私の関係を開くために、我々にはいかなるアプローチが可能なのだろうか。

結語、

西洋思想との比較において佛教思想から本来的な「生きる」を炙る。

現象せしめる有と現象する有の関係について、佛教は西洋思想とは異なった 視点から向き合う。教科書「倫理」で、佛教の項目から「私」についての記述を求めるなら、『正法眼蔵』における道元の言葉が即座に引用されるだろう。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。容易に理解されることだが、ここで語られている「自己をわするる」は決して自己放棄を意味しているのではない。佛教は「生きる」、もしくは「生きなければならない」という世間の常識を逸脱するものではない。むしろ、佛教は「生きる」ことに尋常ならぬ熱意をもって寄り添う。道元は如浄禅師の「只管に打睡して、なにを為すに堪えんや(ただ寝てばかりいてどうするというのか)8」という一喝によって悟ったと言われている。

私自身に他ならないところの「自己」を究めるということは、世俗的な在り方を停止するということである。佛教は修行のために親や子どもでさえも切り捨てよと命ずる。私自身に至るために私を捨象する9。その実践例として、たとえば坐禅においては心を空からにすることが求められるが、「無」我とはいかなる境地なのか。あるいは、佛教思想では「有」をいかに捉えるのか。

佛教、とくに竜樹を祖とする中観派は存在の実相を空として説明する。しかし、縁起によって生じる現象を否定しているのでもなく、その意味では「有」である。この矛盾に関して、長尾雅人は「有的な系列としての縁起がそのまま直ちに空性であるとの意味が中観にはある10」と、無即有、空性即縁起が中観哲学の根本的な立場であると述べる。また、ここで使用されている「即」について、それは絶対に矛盾するもの、たとえば、生と死も即一であると説明される11。「即」という間に何が働いているのか、その探究にあたっては勝義諦12と世俗諦13という二諦の考察が必要になるが、ここでは論じる余地がないので割愛するが、矛盾が同時的に両立するというのは佛教において特徴的な思想である。ヘーゲル弁証法では矛盾は時間的経緯を経て綜合統一される。ハイデガー哲学では、「性起Ereignis」という現象を間に有Seinと現有Daseinは時間的に隔てられている。さらには、フッサール現象学にあっても、生きた現在lebendige Gegenwartにおいて、現出者からの現出とその統一的把握Auffassenには時間的差異が介在する。それに対して、佛教思想においては、矛盾は時間的な差異なく、また、それぞれの性質を損なうこともなく両立する。ここに、西洋哲学と東洋思想の根本的相違がある。東洋思想においては、「今」即永遠である。佛教思想における有無の関係とハイデガーの「性起Ereignis」についての考察は新たな真理の発見に向けて欠かすことのできない題材であり、今後の主要な課題の一つとしたい。道元は、

学人は必ずしぬべきことを思ふべき道理は勿論なり

と語ったと懐奘は書き留めている14。「有即無」、「今即永遠」を佛教の、そして道元の思想から読み解くなら、生きるとは死ぬことであると言えないだろうか。死はハイデガーが語るように決して生の彼岸にあるのではない。ハイデガーに従って死を先駆的に決意するといっても、死はそれでも生の彼岸に置かれることには変わりがない。死を生きるということは今を生きるということであり、それがただの思念ではなく、身体で捉えられたとき、と言うより非思量となったとき15、「今」は真に生きたものとなり、また世界のあらゆる現出が寸暇を置くことなく、すなわち思念によって捉える間もなく輝き示されると佛教は語る。

このような理念を高校生に語ることは難しいこととは思われるが、一生は短く、それゆえ寸暇を惜しんで生きなければならないということを理念とするなら、少なくとも語るだけの価値はあるように思えてならない。佛教は生死しょうじを一大事とする。死を生きることにとって世俗の欲は関心の的から毀れ行く。そのような生き方は自律を招き、人を自おのずから真の道徳に従った生き方へと矯正する。自律とは根拠をもった自信であり、他者との比較を些末なものとして理解する。したがって、自律する者は差別する心とは無縁となり、自ら立てた律法に従うという意味で心は自由となる。真の道徳は道徳を軽蔑する。・・・誰の言葉だったか。

1 現出Ersceinungとは意識に対象が感覚素材として現れること。現出者(現出する物それ自体)が与えられるわけではないことに留意。

2 『論理学研究』はHusserliana(フッサール全集)19巻。『論理学研究』は以下『論研』と記し、HusserlianaはHua.と表す。

3 「対象と意味とは、決して一致するものではない。当然のことながら、両者が表現に属するのは、ただ表現に意味Sinnを与える心的作用による(『論研』P.57,Hua.S.46)

4 フッサールの意味と意義に関する講義はHua26,Vorlesungen über Bedeutungslehre Sommersemester 1908(『意義講義』)を参照のこと。フレーゲによる意義と意味の区別は有名だが、フッサールも両者を区別し、意義Bedeutungは対象性を志向するもの、意味Sinnも対象への方向性を持つが、同時に異なる意味が同一の対象に付与することが可能であるとした(Vgl.,S.178)。意義の意味は意義された対象性によって規定されるとあるように(Vgl.,S.26)、意味は直観によって基礎づけられるというのがフッサール現象学の基本的態度である。たとえば、アプリオリな判断も「意味によって基礎づけるためには我々は直観に立ち返らなければならない」(Vgl.S.127)。ところで、意味においては客観的意味と主観的意味が区別されなければならない。レイコフは、たとえば、意味内容は心の中にあるものなので、(たとえば)文学作品の解釈には広い幅があるとし、「あらゆる「読み」には解釈がつきまとう」(『詩と認知』紀伊国屋書店、東京、1994)と述べている。フッサール現象学における意味付与は心的な作用であると言いながら、主観的要素が排除されている。

5 フッサールはヒュレーと名づけた感覚素材に現実性をもたせるために、(あらかじめ意味づけられた)ヒュレーから、その起源としての原ヒュレーUrhyleへと感覚素材の性格を変化させてゆくが、原ヒュレーそのものの定義づけは明確には行っていない。ヒュレーと呼ばれる感覚素材が現実的なのか、その素朴な疑問をいくつかの機会で発言してみたが、現在の日本現象学会の重鎮である山口一郎氏を初めフッサール学徒にとっては特に問題にならないようである。他のある研究者は「感覚、(=)ヒュレーでいいじゃなないですか」とさえ言う。「哲学する」とは本来的には何なのか、この会話からは

見えてこない。

6 中観派佛教は、ハイデカーとはまったく反対の立場に立ち、無を本源とし、具体的な存在者は仮設されたものとする。無と有の関係について、佛教思想のなかで唯識派は中観派とはまた異なった見解をもち、佛教思想においても大きな論点の一つとなった。それについては、長尾雅人、山口益などが論じていることもあり、今後の課題にしたい。

7 中埜肇、放送大学テキスト『哲学思想史』、S63年、66頁参照。

8 ある時、授業中、居眠りする生徒にこの物言いを真似てみた。当然ながら、反応はまったくなかったが、それが「釈迦に説法」だったか、「ウマの・・・」であったのかは分からない。

9 それはヘーゲル弁証法におけるAufheben(止揚)とも異なる。Aufhebenにおいては、その前段にあって、否定され、矛盾となった自己に向き合う。Aufhebenによって自己は最後には否定されることなく自己自身へと綜合されてゆく。自己に向き合うという意味では同じでも、それを捨象するか、受容するかで両者は正反対の関係を築いている。

10 長尾雅人『中観と唯識』十頁 岩波書店 東京 2006

11 同書 十八頁参照

12 勝義諦とは真諦とも言われ、最高の究極的真理を意味する。すぐれた智慧のはたらく領域を指している。

13 世俗諦とは俗諦とも言われ、一般的な真理、世俗の立場での真理を意味する。二諦の関係については今後、重要な主題として考察する予定である。

14 『正法眼蔵随聞記』第二、十七

15 非思量とは「考える」の意の思量と「考えない」の意の不思量を超えた境地。身心脱落。

参考文献からの引用

中埜肇『中世哲学史』放送大学テキスト

付記

今回投稿した小論は最近着想したものを手短にしたためたもので、時間に限りもあり、まったく纏まってはいないのですが、私の今後の研究の指針を確認するものとして投稿することにしました。学会誌への投稿となると制約も多く息苦しく感じますが、今回は放下Gelassenheitの心持で楽しく書かせていただきました。こうした機会を与えていただいたことに深く感謝します。

毎年暮れになると同志社大学哲学科に所属する先生方による新年会(新島襄の「真理は寒梅の如し」という言葉にちなんで「寒梅会」と名づけられています)の案内状が届きます。ここ数年は欠席続きで、一昨年は「来年は、ぜひ出席するように」と恩師である川島秀一先生からご訓示を受けていたところ、昨年の案内でご逝去されていたことを知りました。私は愕然とした気持ちになり、反省と懺悔の気持ちを込めて、ファイナルと銘打たれた今年の寒梅会に出席してきました。卒業後、私は、筑波大学で竹村喜一郎ゼミに属し、また東洋大学で日本、また本場ドイツにおける現象学研究の第一人者である新田義弘先生の下で学ぶことになりますが、その間も、川島先生からは私の学会活動を陰から支えて下さるなど温かいご支援をいただきました。同志社大学を会場とした日本現象学会での論文発表の後、お茶にお誘いいただき心から褒めてくださったことは今でも忘れられません。このささやかで拙ない小論をわが師、川島先生に捧げたいと思います。  


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