石破と高市


ドキュメンタリー「解放区」という番組で「受忍‟耐え忍ぶ国”の終わらぬ戦争」というテーマの下で、受忍論が取り上げられていた。

戦争での民間人被害者に対して日本政府は責任を取っていない。その根拠となった考えは戦争の被害は国民が等しく耐え忍ぶべきであるという受忍論。2007年、空襲被害者131人が国を提訴するも、2009年東京地裁は、「国民のほとんどすべてが戦争被害を負っており、救済対象者を選別することは到底不可能である」と判決し、退けた。

空襲で母親と弟2人を亡くしたという85歳の女性は、一言謝ってくださいよ、と泣きながら訴える。同じ思いが、

国民が我慢を強いられるのはおかしい。原爆被害は戦争を始めた国によって償われなければならないと、ノーベル平和賞授賞式でも訴えられた。

番組は「受忍論」について、二つの視点から疑問を投げかける。

ひとつは、民間人、その遺族に対しては保障も謝罪もない一方で、戦犯など軍人には手厚い恩給が支払われているということ、

ひとつは、ドイツは負の清算に真摯に向き合って、戦争の結果はみなで負わなければならないという考え方に基づいて法制化を行い総額13兆円を費やして軍人、民間人を区別せず補償したということ。その結果、家財を失った人の生活再建、年金や医療サービスの提供が施行され、国民は家を取り戻したと喜んでいる。

戦争はまだ終わっていない

ということは、軍遺族には年金がいまだに支払われているということを鑑みれば、国も実質的に認めているということにはならないか。

女性は、人間として(国によって)認めてくれていなかったことをきちんとやり遂げてあげたい、それが私たちの戦争が終わるときと語る。

受忍論について、石破氏は戦後80年の所感として語る。

なんで日本はあのやってはならない戦争に突入したのかを検証しないと同じ事が再び起こる危険性がある。何で無辜の人々があんなに死んでいったのかということに対する思いがある。

受忍論を聞いたとき、違和感を感じたのは、何で日本国憲法は全く予定していないことなのだと、憲法のどこにそのことが書いてあるのか、そもそも憲法はあの戦争の反省をもとに作られた憲法であるはず。

受忍論は国家の在り方として考えなくてはならない。第一には被害者の気持ちに応えるということだが、そのことの本質は日本国って何なのか、だと思う。被害は受忍だという論理は飛躍。国の在り方そのものが問われている。

これを聞いたとき、石破氏は政治家としては無能であったが、人間としてはマトモなのだと思った。

他方、高市氏、

以前、河野洋平氏に対して、「私が戦争をしたわけではないし」と言い放ったことが忘れられない。

国会の所信表明では受忍論については石破氏の見解を踏襲したにとどまり、前向きな発言はされなかった。政治家的答弁の域を超えてはおらず、おそらくこの件について真摯に考えるつもりはないということだろう。真摯に国家主義者としての手腕は期待されているようだが、人間としては幼稚であるという印象が拭えない。

番組は、受忍論がまともに議論されないと戦争へのハードルが下がると結論する。戦争は人の命に思いを馳せることのできない国家主義者によって始められると歴史は語っている。近い将来、政治家が高みの見物をする下で、日本の民家に、今度は、焼夷弾ではなくミサイルが降り注ぐのだろうか。

            2025,12,13


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

PAGE TOP