成人式
隣町にあるジムまで、バイクでおよそ20分。
道路は交通量も多く、それがストレスにもなるので、休館日には行き当たらないようにと入館のたびに注意を払う。しかし、それでも失敗はあったりする。
1月13日、会場は成人式の会場になっていた。
窓口で訊いてみれば夕方から利用可能ということだったが、それまで3時間近くも待たなければならなかったので諦めて帰ることにした。
式典は終わっているらしく、館外はスーツ姿、晴れ着姿で埋め尽くされていた。
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私が成人式を迎えたのは、もう50年近くも前のこと。
記憶は定かではないが、大学のある京都から急ぎ帰京して中学時代の友人と待ち合わせたのではなかったかと思う。3人が揃ったとき、友人の母親が、
「まぁ、今日は、みんな、スーツで、」と言い始めて口ごもった。
私は、スーツは着用していなかった。そのことに気づいて、発言の主はばつの悪い表情をしていたが、私は意には介さなかった。ハレの日とか、着用すべき衣服とか、そういったものへのこだわりはなかったし、世相に安易には迎合しないと若い時代にありがちのつまらない矜持もあった。
成人式と言えば、女性にとっては一生に一度の晴れ舞台。その日を晴れ着で、というのは強い思いなのだと、私が成人式を迎えたとき、会場に着くや否や、ふくよかなお嬢様が目に入ったとき、そう思った。しかし、どこを見渡しても晴れ着姿というなかで、印象に残ったのは、それとは対照的な姿だった。
会場で着席していると、私の前に二人の礼服姿の女性が座った。パーマのわずかに充てられた黒髪は自然に整えられ、胸にはコサージュ、背筋はピンと伸び。全体に質素だが、そのことがかえって気品を際立たせていた。おそらく心底には人の目、世間体は意に介さないという自負があったのだろうと想像する。その光景はいかにも清々しかった。
おざなりで退屈な講演の後、会食などの予定もなく、連れ立った友人は「淡白だね」とため息を漏らし、帰宅してみれば空虚感だけが残った。通過儀礼がもしアイデンティティの組立に何某かでも寄与するなら意味もあるのかもしれないが、私の場合、参加しないことでの後悔が起きないようにと、そんな念が働いた結果ではあり、終わってみればこんなものかと、そんな感慨しか残らなかった。
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翌日、ジムで親しい職員に、事前に注意勧告があったのか訊いてみたら、
「張り紙が、ここにも、そこにも、あそこにも」と、返されてしまった。
人は気づかないものである、と思うのは私だけだろうか。
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そんな些事が、或る番組を連想させた。
飯塚事件、
通常では考えられない目撃証言が強い証拠となって、無実であったに違いない人に死刑が宣告され、異例の速さで執行された。
犯行現場の車には容疑者の物と同じラインが入っていた。それを通りすがりの車がわざわざ振り返って確認したと言うのである。
目撃証言が真実だったのか、
「NNNドキュメント」はあまりに不自然と、実証を根拠に、訝る。
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良心をもって人を信じる、
それが日本人の美徳であったと思う。
しかし、そんな民族性が昨今崩れているようで、 残念に思う。
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権力が物を言う世界に迎合する者、
権力にオモネルことで鎧を被り、それを何度も取り替えてはより堅固なものとし、心を腐らせ、 やがては恣意をもって法を超え、人権さえも踏みにじる存在となってゆく。
そんな世界が牛耳る国は不幸としか言いようがない、
しかし、そうした事情はどこの小社会でも変わらないようだ。
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人の一生とは、良心と保身との葛藤である、と思う。
自尊心とは忘れたくない言葉である。
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娘は今17歳、
晴れ着を着るなら、少しでも痩せて欲しいと、親なら願ったものだろうか。
16,Jan.,2025
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