「万引き家族」という映画
評判のようではあり、テレビで放映されるのを機会に視聴してみたが、有名女優の演技は、いつもの一本調子。全体に退屈で、社会への責任、文化への寄与といったものも感じられない。まるで仲の良い友達同士で面白がって作っているようで、どこが良いのか、私には分からなかった。
そのあと、同じく「家族」を扱ったアメリカ映画、「何がジェーンに起こったか(1962)」を見た。シナリオは同様に単調で、特に何かを得たということもなかったが、ただ、飽きなかった。俳優の格の違いを感じた。映画がたとえ娯楽にすぎないものであるにしても、何か見失ってはいけないものはあるような気がする。
「悲の器」
高橋和己、昔、何作か読んだが、現在は忘れられた小説家である。
気が向いて、書棚で埃をかぶっていた「悲の器」を取り出してみた。記憶からは失せてしまったが、古本屋で買ったものらしく、巻末には220いう数字と並んで、雑筆で、「語いが増えることに感謝するが、二度と読みたくない作家だ」とあった。おそらく、当時は、小説のなかの話とはいえ、主人公の家政婦に対する不実が許せなかったのだろう。しかし、今回、読み直して感想としたのは、主人公正木典膳のある種の真面目さだった。それは、言ってしまえば、手前勝手なものである。しかし、底辺にあるのは、自分という存在への拘りであり、その強烈な自己肯定は、約束を守る、ミスを犯さない、信用を保持するといったような現代人が重んじる他者を現前とした生真面目さとは異質なものであると感じた。そういえば、夏目漱石『行人』にあっても一郎は「真面目」であることに生きることの救いを見出した。大いなる真面目さとは、なにより自らに向かうものであり、それは人の動向をおもんぱかり、評価のみが横行する時代とは相いれないのかもしれない。 高橋和己は生きることの真面目さにこだわった作家であったと思う。その作品が失われてしまったというのは、現代社会が失ってしまったものと某か相関しているのではないかと思う。 人は、現代の為政者に象徴されるような、真面目な仮面をかぶった不真面目であってはならない。
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