学校教育は必要か?(2019,08,28)
NHk、「逆転人生」シリーズで「受験全滅、不登校から大逆転」が放映されていました。スポットが充てられていた人はたまたま機会に恵まれて「不登校新聞」に就職できたようです。幸運に恵まれたことは祝福すべきことでしょうが、そうした一例だけで不登校に悩む子どもたちの未来に光を注ぐことになるのか、はなはだ疑問に思いました。
学校の本来的目的は児童生徒の社会で生活できる力を育てることにあります。不文律として社会にはルール、人間関係には守るべき礼節というものがあり、学校は常識とされている最低限の生活態度を学ぶべき小さな社会です。
しかし、他方、それがゆえに、学校は個人の個性を認めず、矯正する場所でもあります。勉強にしても、たとえば、1+1=2とはどういうことか、と考えさせるのではなく、そう理解しないと世間では通用しないと叩き込まれるのです。だいたいの子どもたちがそれを学び、世へと羽ばたいていくのは、とても便利なシステムです。なぜなら、だいたいの人間は凡庸であり、学校で学んだことは社会で生活していくための知恵ともなるからです。
学校は子どもが本来持っている豊かな才能をつぶす場所です。決められた考え方ができないと世の中では生きていけないと鞭を振り回す所が学校です。だから、才能豊かな子どもが学校教育になじめるはずがないのです。エジソンを小学校教育から離脱せしめたのは才能です。
学校教育が必要であるとすれば、多くは捨ててもかまわない知識のなかから、もしかしたら人生を通して向き合うことができるかもしれない主題、ヒントを付与してくれる可能性を秘めているという点にあります。アインシュタインは学校教師から劣等生というレッテルを張られていたそうですが、聞いた話によれば、磁石に関心をもったことが人生の道を切り開くことになったそうです。学校で一つでも不思議だと思えることに遭遇できる子どもは仕合せです。そのような機会に恵まれたら、その主題を主に人生を組立て、他の授業などは聞いている風を装えばよいのです。
学校の先生の多くはただ教育に矯正されて教職に就いた、ただの人です。知が成立する理論には長けているかもしれませんが、問うことの意味にまで掘り下げて授業をできる人は稀です。上の地位にある人の顔色ばかり見ている、そんなくだらない人が多いです。多様な価値観を認めない教育の下で活力ある社会の産まれるはずもありません。教育に洗脳され、自分の個性をすり減らしてしまったら大いなる損失に違いありません。必要なのは、常に自分を見つめ、自分とは何か、何に関心があるのか、考え続けることです。
P・フォンダ死去(2019,08,17)
中学生のとき、映画館で「イージー・ライダー」を見たが、 エンディングの意味は理解できなかった。どうしてこんな退屈な映画がアカデミー賞なのか。 しかし、その後、南北の相容れない文化の違い、当時のアメリカの深い闇を抉り出した作品であることを知り、記憶に残る映画となった。 感情、思想の違いをいかに受け入れるか、民主社会の一つの試金石にはなると思われる。
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