アウシュヴィッツ(Auschwitz,1)


アウシュヴィッツ(Auschwitz,1)

実務としてユダヤ人をガス室に送り、死体を処理したのはゾンダーコマンド(特別任務隊の意)と呼ばれた他ならぬユダヤ人で、一人は、子どもから、

「あなたたちもユダヤ人でしょう。仲間をガス室に送って自分だけが助かるなんて、どうしてそんなことが平気でできるの?殺人者として生きることが僕たちの命より大切なの?」

と、問いかけられたという。また、或る一人は、

「パパ、僕は死にたくない。何が何でも僕を助けて」

と哀願する子どもを見捨てざるを得なかったという。

(「アウシュヴィッツ 死者たちの告白」(NHK)から)

ポーランドに入る前、東西ドイツが統一され、まだ中世の雰囲気を色濃く残しているドレスデンに立ち寄った。

歌劇場を眺めていると一人の若者が近寄ってきて、チケットの購入を持ち掛けられた。ニュルンベルクのマイスタージンガー、夢の公演だ。しかも、23マルクと言う。日本で買えばおそらく5万円は下らないチケット。それがわずか1,500円足らずで観覧できる環境に旧東ドイツの現状と、それでも文化を大切にしている国民性を感じた。開演は3日後。ずいぶん悩み、結局は諦めたが、そのことは後々まで後悔を残した。

夜となって、列車に乗るために駅に向かった。旧市街から中央駅までの長い夜道は暗く、街灯が所々に力なく灯っていた。

途中、屋台を見つけ、ケバブを頬張り空腹を満たした。

ドレスデン中央駅でカトヴィツ行の列車に乗り込む。国境のゲルリッツという駅に着くと、ドイツ人車掌からビザ所有の有無を尋ねられ、つづいて、厳冬の時期であったので駅員から温かい車両への移動を勧められた。

列車がポーランド領に入ると、いきなり五人くらいの軍服を着た官憲に取り囲まれた。

おそらくはポーランド語で話し始めた険しい表情に気後れしながら、ドイツ語でしか応対できない旨を告げると、彼らは一様に困惑の表情を浮かべた。誰が応対するのか、おそらくそんなことを話し合ったのだろう、しばし彼らの間で会話があった後で片言のドイツ語でビザの提示を求められた。

そうして緊張の時をやり過ごし、ホッとして車窓を眺めていると、ポーランド人が怒涛のごとく車両に乗り込んできて私の廻りを埋め尽くした。驚いたのはその出で立ちで、頭には例外なくロシア帽、重ね着した衣服で身体は丸く膨れ上がり、脚は膝までの分厚い靴下で保護されていた。

ジーパンで少しばかり厚手のオーバーコートを羽織った私はその時から場違いの異邦人となった。

カトヴィツェという街に着いたのは夜も明けた頃だったか、駅構内では売店はどこも扉が閉じられていた。仕方なく駅舎を離れてみても、薄汚いビルばかりが建ち並び、店らしい店はどこにも見当たらない。

何処か寄る辺がないものか駅周辺をぶらついていると、路地で排便をしていた、三十路くらいの男が話しかけてきた。トイレのためのわずかな身銭を惜しんで人前憚らず脱糞する男の言うことなどどうせ碌なものではない。私はただ男を怒らせないことだけを考えていた。

男はいったん振り返り自ら放擲した物を一瞥、一呼吸してから語り始めた。ポーランド語らしかったが、

 Nur Deutsch(ドイツ語のみ)

と、応じると、男は困った様子で、しばらくしてから適当にドイツ語を並べ始めた。そして、最後に、

Ich bin du.

(私はお前だ、※duは目下の者、恋人同士、親しい間柄でしか使用されない) と、強い口調で閉じた。途中、パスポートと言っていたことから、男が私の旅券を略奪しようとしていることは理解できたが、分からない振りをした。その挙句がIch bin du.だった。私は、

 Ich verstehe nicht.(理解しない)

と応えた。

私は納得したように首肯する男を振り切り、その場を立ち去った。

カトヴィツェ駅に着いてから12時間近く経ち、辺りは薄暮となっていた。 欧州は夏の陽は長いが、冬はその分短い。日中、私は盗難を恐れ、睡魔を退けるため必死に動き回っていた。そして、その日の寝場所を思案し始めたころ、駅舎のなかで一軒のみ窓口を開けている出店を見つけ、藁にすがる思いで駆け寄った。

What do you want?

ガラス窓の向こう側から響いてくる男の力ない英語はさながら天使の声のように聞こえた。私は何事か夢中に言葉をつなぎ、そして、ホテルの所在を聞き出し、ようやくにして一軒を見つけた。ただただベッドで横になりたかった。

ホテルは古びてはいたが五つ星、 受付の女性はスーツを着こなす、さながらボンド映画にでも出てきそうな金髪のキャリアウーマン風。彼女はさながら浮浪者が来たかのような不審の眼差しを私に向けた。宿泊希望の旨を告げると、請求された宿泊費は、 正確な数字までは忘れてしまったが、30ドル台。

お前に払えるのか!?

彼女の表情と口調は明らかにそう物語っていた。

Cheap!

 私はほとんど叫ぶように返し、成田空港で換金したドル紙幣を渡した。

彼女は、それを初めは手触りで確認し、次には天井に向けて透かしを確認した。旧東側諸国の金銭事情を垣間見た思いだった。

部屋はやはり古びていて、シャワーから温水はなかなか出なかった。

部屋に戻って、旅行雑誌を眺め、東側諸国ではその日が労働記念日にあたっていて、どこも休業状態であったことを知った。

翌朝、オフィチエンチム(ドイツ名、アウシュヴィッツ)行の列車があるのを確認し、喜びに溢れた。たしかに歓喜の一瞬だった。

収容所に着いたのは、8時も回った頃だったろうか、他に人影は見当たらなかった。

入館すると、最初に目に入るのは、ユダヤ人から接種した物。人毛で作った毛布、金歯、靴、鞄、そうしたもののほんの一部がショーケースのなかで展示されていた。訪問したのは30年以上も前のこと、はっきりは記憶していないが、それらはほんの一部であろうことは容易に想像できた。

地下室を歩き始めたとき、右側の壁には、収容者の遺影が、そして、左側、それぞれの部屋は、

おそらく人体実験に使われたのではないかと想像される装備器具の諸々。歩いていて、頭がとても痛くなった。何かで両側が締め付けられている感触、我慢できず、いたたまれなくなって、早々にその場を退去した。霊的な能力はない。しかし、そのときは犠牲となった方の影を感じざるをえなかった。

Albeit macht Frei(労働は自由をなす)と書かれた門を出て、もう一つのビルケナウ収容所へと足を向け始めたとき、

後ろから、館の係らしい人から声を掛けられた。

とても歓迎してくれている様子で、

どこから?

と、訊かれたことだけは覚えていて、その後、

しばらく偕行して、話をしたことだけは記憶にあるのだが、・・・

短い時間ではあったが、暖かい陽射しの下で、

とても穏やかで、心温まる、豊かな時間だった。

印象に強く残った。


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