忘れえぬこと
「こんな恋愛があってもいいのではないか、と」、
「でも、それは投手がストライクゾーンのど真ん中にボールを投げ込んでいるのに、バッターボックスに立っている貴方がそのど真ん中に顔をさらして、ただボールをぶつけられているようなものです」
ある番組で、俳優の石坂浩二氏がそんな内容の言葉で一般の出演者を断罪していた。 テレビをオンにするなり映った映像で、事の経緯は分からなかった。
おそらく一世一代の告白が、
石坂氏の言葉で空しく砕け散ったということが窺い知れた。
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私は、その出演者に自分を重ねていた
言葉は残酷に、私のなかでも響いた
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あることで二年の間、苦患呻吟していたとき、
フルトヴェングラー指揮ベートーヴェン第九を聴いた
第四楽章に至ったとき、 涙が溢れ始めた
演奏が終わったとき、
私のなかでひとつの世界が捨象され、
代わって、新たな光が刺し込むのを感じた
「暗夜行路」、
大山で夜明けを迎えた時任謙作の心境は、
おそらくこのようなものではなかったか、と、
私は、私から「私」が放たれてゆくのを体感した
大学二回生も終わりを告げる春のことだった
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三回生となって選択した社会学概論の講義で、
少し前の座席に女子学生が三人並んで座っていた
講義が終わったとき、
そのうちの立ち上がった一人に、
私の眼は釘付けになった
しばらくその様子に見とれていたが、
なにより友達に投げかけている笑顔が素敵だった
まったく世間擦れしていない、
素直で、自然で、さながら
梅雨空の合間に朝陽を浴びた紫陽花のように、
爽やかに光り輝いていた
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「あんな子、タイプなんだよ、ね」
隣にいた学友に呟いたとき、
彼は、
しばらく彼女の様子を眺めた後で、
にこやかな笑顔を作って
「なかなか可愛いいやん」と、
力強く同調してくれた
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新たな世界が開かれ、
心には春が芽生えた
その後の講義が待ち遠しくなったが、
しばらくは休講が続き、
願いはなかなか叶わなかった
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この時、 それは
私の、ただ一方的な想いに過ぎなかった
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講義が再開され、
初めての講義が終了したとき、
彼女は私の視線に気づいた その瞬間、時間は硬直し、 しばらく彼女の戸惑う姿が見られた 明らかに動揺している風だった
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それ以後、彼女と私は意識しあう関係となった
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それから卒業を迎えるまでの二年間、
彼女との会話の機会は幾度となく、
訪れた
しかし、そのことごとくを受け流してしまい、
教育原理という講義が終わった後で、
振り返ったとき、
三人の女性が立ち揃って、
私に侮蔑の視線を投げかけているのに気づいた
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卒業してから35年目の2016年、夏、
私は札幌にある彼女の家を訪ね、
戸口の前にそっと謝罪の手紙を置いた
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暫くして、一通の手紙が届いた
見知らぬ差出人からの手紙には、
家屋を半年くらい前に譲り受けたこと
元の家主の女性には手紙が絶えず、
現在の住所が分からないために転送もできずにいるが、
差出人等から推量するに、
とても人徳のあることが推察されること
彼女の出身校である札幌北高の同窓会に照会してみたら如何か、
そんなことが認められていた
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人生には、
もしかしたら、
そのためにだけ有る一刹那というものが
ある
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卒業式も終わって、
もう、京都を去るというとき、
葵橋西詰というバス停から、
私は、
彼女自身から蔑みの視線を浴びた
間に、居合わせた見知らぬ若者が、
振り返って、私を一瞥し、
そして、笑っていた
そのときの彼女の視線を
忘れることはない、
また、 おそらく、 今後も忘れることはないと思う
/
一期一会に、
一即一切が重なるとき、
/
その一刹那を取りこぼしたとき、
それは、一生の課題となる
/
私は私が勇気を欠いた、
まったく愚かな人間であったことを
告白しなければならないが、
しかし、そうした経験ができたことは
ある意味では、
幸福であったと、
そう思いたい
/
情けないほどに勇気を欠いてはいたことに、
弁解の余地もないが、
子どものころから、
なぜか、
仕合せにはなれない、
そんな、抱かずともよい、
思念に支配されていた
/
今でも、時折、京都を散策しては
葵橋西詰のバス停から、 彼女を想って歩いた
下賀茂から上賀茂神社まで、
賀茂川沿いの道のりを
当時を偲びつつ歩くことがある
・・・とても穏やかな気持ちで
/
優しさと温かさ、
そして、なにより 聡明さ、
歩く姿さえそんな人柄を感じさせるような、
見た目には云うに及ばず、
内面的にも 筆舌に尽くせぬ美しさを持つ人だった
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