第24回 日本現象学会研究大会 2002年11月10日(土)
「作用そのものの経験としての衝動的志向性」
Die Triebintentionalität als die Erfahrung des Aktes selbst
目次
序
1, 感覚とヒュレー
2,受動的志向性はヒュレーを素材としているということ
3,感覚素材は身体に基づくべきであること
4,「作用する」ということについて
5,,作用そのものの経験としての「衝動的志向性」
まとめ
序
感覚は、対象構成にあたって最も原初的な素材としてあるはずである。ところが、たとえば、『イデーンⅡ』[1]では、感覚は「分析的な」(Hua.Ⅳ,22)遡及によって、しかも「最後にschließlich」(ibid.)たどり着くものであるとされている。また、『論理学研究』[2]では、感覚は作用が消失しても持続しうるものとされていて(Vgl.Hua.ⅩⅨ/1,409)、厳密な意味で作用の対象とされているわけではない。感覚はただ感じられるものとしてあり、「痛みの感覚と痛みの感覚の内容」(ⅩⅨ/1,408)は厳密には区別されないとされる。現象学的構成にとって、いったい感覚素材とはどのような性格を持つものなのか。感覚は『内的時間意識の現象学』[3]では、ヒュレーと同じものとして性格づけられている。感覚とヒュレーは端的に同じものとして性格づけられるのだろうか。
感覚素材については、また次のような問いが生じる。
『イデーンⅡ』では、「知覚においては、さまざまな様相存在Soseinを備えた事物は身体とその諸器官に因果的に作用し、また、それら諸器官に、心理物理的な条件性において、感覚などが結びついていて、それらすべてのことが事物の構成に不可欠であり、…」(Hua.Ⅳ,72)と述べられている。事物の構成は原初的にその身体への刺激から始まるはずである。しかし、「同一的な事物それ自体と主観的に制約された事物の現出様式、すなわち私と、私の身体、そして私の心との関係によって存立する、主観的に制約された事物の諸徴表とは区別される」(Hua.Ⅳ,75)と述べられるように、そもそも感覚そのものが事物をそのまま映しているわけではない。では、いったい感覚はどうすれば摑むことができるのだろうか。
世界はまず私にとっての世界である。私自身に与えられる感覚を問わなければ、世界は決して具体的でより豊かなものにはならないように思われる。また、その豊かさは「私にとっては、空間現象はただ感性的諸性質をともなっているときにのみ与えられうるのに対して、客観的な空間に対しては、客観的な諸性質をともなって与えられるのではなく、ただ感性的な諸性質をともなった主観的な諸空間でのみ現出しうる」(Hua.Ⅳ,87)という言からすれば、客観的世界にもつながっているように思われる。
この試論では、感覚の把握の可能性について、感覚とヒュレーの違いに着目しつつ考えてみたい。
1,感覚とヒュレー
「感覚は《これ》という個別性の、したがって絶対的時間位置の原起源である」(Hua.Ⅹ,66)。自我は、感覚を「心的な主観の様式で感覚している」(Hua.Ⅸ,103)。それは心的な体験である。ただ感じられるものとしての感覚は身体に局在化されているが、それが対象構成のための原素材として性格づけられるとき、「絶対に変容されない」(Hua.Ⅹ,67)原印象Urimpressionとなる。フッサールは、「意識は、それが変様されていないときは、《感覚》であり、またはそれと同じ意味で印象である」(Hua.Ⅹ,103f.)と述べている。原印象は「持続する客観の《算出》が始まる《源泉点》」(Hua.Ⅹ,29)でもある。
『イデーンⅠ』で、感覚的な体験である「第一次的内容」と、それを介して呈示される志向的体験が区別される(Vgl. Hua.Ⅲ,192)。そして、「感覚的諸体験がつねに志向的機能に組み入れられるのかどうか」(Hua.Ⅲ,192)は決定されないとして、感覚への問いを取り除いてしまっている。『イデーンⅡ』では、身体に局在化された感覚について主題化されているなかで、志向的体験は「もはや直接的、本来的には局在化されておらず、もはや身体に関しては層を形成していない」(Hua.Ⅳ,153)ものであり、そこには身体的な感覚は含まれていないと述べられている。そこでは、意識と身体を結合させているものがヒュレーであるとされている(Vgl.Hua.Ⅳ,153)。
ここで、ヒュレーの性格について観てみたい。「我々は知覚体験のうちにも〔色のようなもの„so etwas wie Farbe”〕を見出す。すなわち、それが〔感覚の色〕であり、具体的体験のヒュレー的契機である」(Hua.,Ⅲ,226)と言われる。知覚を行うときに、同時に自我は身体を感覚している。ヒュレーが身体と密接に連関していることは否定できないように思われる。また、知覚は「事物を観察するとき、我々はそれを必ずいつでもあるひとつの観点で観察している、すなわち、そのときにとくに把握へと至る、純粋に感性的な感官の特別な契機としての一つの《徴表》Merkmalへと向けられている」(Hua.Ⅳ,20)と述べられているように、感覚全体を対象としているわけではない。フッサール自身、ヒュレー的所与は、たとえば、色所与、音所与、香所与、痛み所与等々、「主観的所与」(Hua.Ⅸ,163)であると述べている。
ヒュレーが原印象に相当する安定した素材であるにしても、もしそれが主観的であるとするなら、はたして客観的な対象構成のための感覚素材として十全であると言えるだろうか。フッサール自身が「感性とは、狭義では、正常な外的知覚において<感覚>によって媒体されたものの現象学的剰余を言い表している」(Hua.Ⅲ,193)と述べている。感覚とヒュレーの間には差異がある。
「感覚素材」概念に二義性が生じた原因として、『論理学研究』とは異なり、『イデーン』では身体と意識が判明に区別されたこと、また、第二に、『論理学研究』では時間概念がまだ考慮されていなかったことが考えられる。ただ感じられるものとしてある感覚はつねに現在としてある。感覚は感覚されることによって、他の所与との関係性をもつようになり、また時間意識にとっての素材となる。
超越論的哲学は、意味づけられた素材を題材にして始められる。もし超越論的能力といったものが、「反省において、絶え間なく経過しつつ能作している生を顕現せしめる」(Hua.ⅩⅩⅨ,117)ことにあるとすれば、感覚をただ感じている状態では自我は超越論的であるとは言えない。それゆえ、超越論的哲学を形成するためには、作用とその体験、そして体験内容を区別する必要があった。
フッサールは「ヒュレー的契機が(あるいは、その対象が継続的な知覚系列である場合には――継続的なヒュレー的変遷が)まさにそれであって、他ではない場合にのみ」(Hua.Ⅲ,227)対象は客観的に規定されたものとして現出すると言う。この場合において、感覚素材は曖昧なものであってはならない。だが、感覚には、心情体験など身体そのものを原因とする感覚なども含まれるのではないか。ヒュレーが、フッサールの言うように、ただ「意識機能のための質料」(Hua.Ⅸ,167)であるとするなら、感覚素材が二義的であることになり、結局はその曖昧であることを余儀なくされるのではないか。
2,受動的志向性はヒュレーを素材としているということ
感覚素材の曖昧さは、自我が能動的に作動する以前の領域へと遡ることによって、そして、先主観的な感覚が捉えられることによって克服されるのだろうか。その可能性を「受動的志向性」の理論をとりあげて考えてみたい。フッサールによれば、「受動的志向性」によって自我は「表象それ自体においてすでに対象に方向づけられている」(Hua.,ⅩⅠ,76)。そこでは「すべての連合的覚起は結合の規則的形式に沿ってのみ経過しうる」(Hua.ⅩⅠ,160)と言われるように、感性的な素材は連合という形式に沿って統一化しながら自我を触発している。しかしながら、触発とは「意識的な刺激」(Hua.ⅩⅠ,148)であり、身体における感覚的な刺激は含まれていない。「根源的な連合は我々のヒュレー的感性の領域で、…遂行されている」(Hua.ⅩⅠ,151)という記述に触れるとき、意識野における志向性の理論はヒュレーを素材としているということが改めて確認される[4]。
生きた現在において、ヒュレー的領域は、「先世界“‘Vor’-Welt”」(C16V,15,1931年)[5]を形成している。では、ヒュレーはどのように作動する以前の自我を触発するのだろうか。
「志向的対象は意味というタイトルの下にある」(Hua.ⅩⅠ,394)とあるように、志向的に行われる対象構成は、また意味に関係している。とすれば、その対象構成の素材となるヒュレーも意味に関係しているはずである。それで、「知覚作用においては、意味そのものが自己を形成し続けている」(Hua.ⅩⅠ,20)[6]のなら、知覚によって意味が形成されるのと並行して、ヒュレーもより明瞭なものとなりつづけているはずである。N.リーはヒュレーを「対象的意味のより高い統一の構成のための質料である」(P.I.43)と、意味成立のための素材として性格づけている。このことは、受動的志向性における直観の成立において、どのような意味をもつのだろうか。
意味としてのヒュレーは直観以前にあり、それゆえ直観を欠いた空虚表象にあっても、ヒュレーが、たとえそれと気づかれることがなくても存立しているのは、「過去把持的変化は、特定の差異を欠いた空虚な同一性に至り、さらに、…差異を欠いた一般的なゼロへと失われてゆく。それでも、…意味は同一的に保持されており、… 」(Hua.ⅩⅠ,174)と言われる、その意味においてではないか。空虚表象とは直観を欠いた「意味の枠組み」(Hua.ⅩⅠ,9)である。ヒュレーを感覚素材として、内的な意識野で対象構成が試みられるとき、現実的な感覚の世界は内的な意味に満ちたヒュレー的意識の世界に変わる。意味世界で受動的志向性は機能している。
ここで明らかになったことは、触発が起こるとき、ヒュレーは意味として自我に語りかけてくるということである。ヒュレーは、意味として、直観作用より先行していて、それは直観とともに現出する。それに対して、感覚はいつも現在的に身体を刺激している。この二つの事態が、身体を伴った自我につねに並行して生じているように思われる。では、意味と感覚はなにがしか関係を持っているのだろうか。
3, 感覚素材は身体に基づくべきであるということ
ヒュレーが感覚素材として十全ではないことは、フッサール自身によって原ヒュレーUrhyleの概念が打ち出されることによって証されるように思われる。原ヒュレーUr-Hyleとは、「『最も根源的で、あらゆる自我関与から独立していて、それに先行する受動性において』内在的に構成される」[7]感覚素材である。原ヒュレーは、「原キネステーゼ、原感情、原本能をともなった原ヒュレー等々の…」(Hua.ⅩⅤ,385) [8]とあることからも理解されるように、身体に関わる感覚素材である。N.リーは、「原ヒュレーは、もはやヒュレーのような意識的な刺激の意味における触発の統一を呈示しない」(P.I.116)と述べている[9]。原ヒュレーは「究極の自我外の契機」(P.I.117)としてある。
「原初的世界は身体に与えられる」(Hua.ⅩⅤ,283)と言われるように、世界経験は身体から始まる。それゆえ、身体で生じる刺激は最も原初的なもののはずである。身体経験には、その他にも、「心情体験」(Hua.Ⅳ,4)などが含まれる[10]。それゆえ、身体が経験するものは、一見すると多義にわたるように思われるが、『イデーンⅡ』において、刺激の作用は「現出する身体的物体とその延長する秩序に付属し、それらが合致する秩序のなかで秩序づけられるものとして現出する」(Hua.Ⅳ,338,Vgl. Hua.Ⅳ,154)と言われているように、現実的な時間の流れに、そして、身体の運動や行動に沿うものとしてある。その意味で、現実的な刺激も、触発的な刺激と同じように連合の法則の下にあると考えられる。
しかし、感覚、原ヒュレーといったものが、自我外の契機であり、非意志的、無意識的に生じるものであるとしたら、それらはヒュレーとどのような関係にあるのか。今、ここで、身体そのものにおいて、すなわち意識の外で生じている多様で複雑な感覚は、偶発的なものであり、初めから目的的にあるわけではない。では、どのように、その二つの事態は両立しているのか。もしかしたら、感覚そのものは偶然的なものであるにしても、それはあらかじめ沈殿した先規定としてあるヒュレーの影響をなにがしか受けているのではないか。感覚がそのつど秩序づけられる事態に感覚とヒュレーが同時に参与しているのではないか。
「キネステーゼ的多様性は、時間間隔を満たすことによって、ただ線状的統一として継続的な統一を獲得する」(Hua.ⅩⅥ,170)と言われる。身体が行動しているとき、感覚のはたらきが生じていることは言うまでもないにしても、それと同時に、感覚が連合の法則の下にあって、統一化に向けられているとするなら、そこでは、なにがしか他の作用も働いているのではないか。そこで、感覚、ヒュレーと作用の関係について考えてみたい。
4,「作用する」ということについて
身体が感じている感覚に対しては感覚の働きEmpfindenが生じているはずである。フッサールは「各作用はその流れのそれぞれの瞬間にいわば原感覚として機能している」(Hua.Ⅹ,132)[11]と述べているが、感覚の働きのうちにすでに感覚素材は含まれていると考えられる。
K.ヘルトが『生き生きした現在』[12]で指摘したことの一つは、「私は作動する」は反省的に見られるということであり(Vgl.L.G.73)、それゆえ、ノエシス的な生の流れのなかでの自己現在化は「ただ後からしか明るみにだされない」(L.G.95)ということである。「後から」捉えられるのは、生きた現在において生き生きと作動している作用そのものである。反省は、「直接的に、作用を遂行する自我としての自我に向けられている」(Hua.Ⅸ,207)が、体験する作用そのものは括弧(反省)にはくみ入れられない。しかし、感覚の働きが「根源的な時間意識」(Vgl.Hua.Ⅹ,107)であり、それによって、「内在的統一が構成される」(Hua.Ⅹ,107,) なら、感覚しているときに、同時に志向的作用が働いているということは考えられることである[13]。
「作用のうちに《生きる》、もしくはその遂行のうちに没頭しうることと、この作用の対象へと注意を向けることは同じことである」(Hua.,ⅩⅨ,423)と言われる。作用は現実的所与を負っていているので、作用の生起はそのまま現実世界の顕現を意味する。しかし、感覚されるものが、志向性によって、いつも既に感覚ではないという様態で捉えられているとすれば、感覚はすでに生き生きした現在を映すものではなくなってしまっている。感覚の働きのなかでのみ感覚は感覚であり、もし、生きた現在において、感覚を反省以前のものとしてありのまま把握しようとするなら、感覚の働きそのものを、その働いているさ中に把握しなければならない。感覚の働きとそれを把握しようとする働きは同じ対象に向けられているが、しかし、決して同時に発生するわけではない。
さて、ここで問われるのは、感覚を素材とする感覚作用とヒュレーを素材とする志向的作用の関係である。改めて確認しておきたいのは、ヒュレーが感覚作用の結果として、意識野で志向性の素材となるのに対して、身体における感覚素材である感覚は先反省的なものとしてあるということである。
5,作用そのものの経験としての「衝動的志向性」
感覚とヒュレーは相互にどのようにかかわっているのだろうか。
生きた現在において、感覚は、反省においては、いつもすでに経過した状態で捉えられる。『イデーンⅡ』によれば、一度感覚されたものは、感情や、分析や論評することも困難な諸感覚とともに再帰的感覚Empfindnisとなって身体に局在化される。この場合、その層はヒュレー的土台となって、志向的な諸機能を含む個人の意識全体と身体を統合する役割を果たしていると言われる(Vgl.Hua.Ⅳ,144ff.)。既に形成されたヒュレー的なものが、その次から逆に新たな感覚に働きかけるという性格は、フッサールの「すべての我々のヒュレー的所与はかつての<展開生産物Entwicklungsprodukt>であり、したがって、<綜合>への立ち戻りを促す、隠された志向性をもつ」(FⅠ,24,41,1909-23年)[14]という草稿からも読み取ることができる。こうした循環の構造は原ヒュレーの場合においても変わらないように思われる。H.ホールは、「触発するものとしての原ヒュレー的なものが触発する力をもつには、それはまた再びすでに与えられているのでなければならず、…」(LuG,54)と述べている[15]。
フッサールは、対象世界が構成されるためには「ヒュレー的領域において、しかも、また、まず生きた現在において触発的なヒュレー的統一」(Hua.ⅩⅠ,162)[16]が成りたたなければならないと述べているが、生きた現在で、内的にはそのつどヒュレー的統一が成立し、他方では身体は感覚的刺激を受けている。二つの相容れない事態はフッサール自身によって意識されていたように思われる。フッサールは「そのつどの原初的現在を、立ちとどまる今として統一的に形成し、しかも具体的に現在から現在へと向けて、すべての内容が衝動充実の内容であり、またその目的以前に志向されていて、(中略)というような仕方でどんどん進む普遍的衝動志向性が前提されてはならないか、あるいは前提されるべきではないのか」(Hua.ⅩⅤ,595)と問うている。
では、いったい、原初的世界はどのように自我に経験されるのか。フッサールは「諸作用は、時間化の、そして時間化された自我性それ自体のあらゆる段階で同一で、単純な自我である原初的自我の原初的生に存している」(Hua.ⅩⅤ,585)と述べている。作用は、唯一反省の対象にならないものであった。そして、K.ヘルトによって、「作動の匿名性」(L.G.95)としてすなわち、作動としての自我は後からしか覚認できないものとして主題化されたものであった。
衝動的志向性は「自我を欠いた」(ⅩⅤ,594ff.)作用であり、その意味で反省以前のものとしてある[17]。衝動的志向性は「はっきりした諸触発と諸作用を通じて生き抜き、それとともに新しく創造する作用習慣性の主体」(Hua.ⅩⅤ,148)としてある。つまり、それは自らを方向づけつつ、「生きた現在」(Hua.ⅩⅤ,148)を貫く。では、非志向的な感覚や衝動のうちにありながら、衝動的志向性がいつも「最適なものに向きをとる」(AⅦ23a)[18]ことができるのは、なぜか。それは、衝動志向性が「超越的な<目的>を持つ」(Hua.ⅩⅤ,594)なかで、そのつどの今において、意味をもったヒュレーからの触発を受けつつ、同時に感覚への働きを経験しているからであるとは考えられないか。衝動的志向性は自我意識以前の身体の領域で感覚とヒュレーの相関のうちにあるように思われる。
まとめ
感覚素材については、フッサール現象学では、感覚、ヒュレー、さらには感覚的ヒュレーや原ヒュレーなどさまざまに分類され、決して一義的ではない。それは、「色の感覚と現出する<物体の>色を混同したり、形の感覚と<物体の>形を混同してはならない」(Hua.ⅩⅨ/2,763)と言われることからも理解されるように、もともと感覚が対象を正確には映していないことに由来しているのではないか。キネスーゼ的感覚にしても、「それは物質的事物の現出にとって本質的なものではない」(Hua.ⅩⅥ,163)と言われる。だが、感覚は自我と世界との最も原初的な接点であり、対象構成にとって重要な素材であることには疑いがない。ここでは、感覚とそれに基づく対象構成の方法を感覚とヒュレーの関係、そして、それと作用の関係に着目して論じてみた。
非志向的なものである諸感覚素材、諸作用などが連関して会するのが現在という場所である。唯一経験可能な現在という場所で対象を経験しつつ、同時にそれを把握するのでなければ、それを生き生きと捉えることにはならない。その可能性は反省する自我意識以前の領域に、具体的には作用の領域に求められるのではないか。
フッサールは、「主観性一般において対象世界が構成されうる」(Hua.ⅩⅠ,162)ためには、「まずもってヒュレー的領域で、それもまずは生きた現在で触発的なヒュレー的統一が」(Hua.ⅩⅠ,162)生成されていなければならないと説く。生きた現在において、感覚の働きが生じると同時に触発が自我を刺激するなら、感覚からの身体への刺激は世界がヒュレの負った意味として語り出されてくるときでもある。衝動的志向性はそうした事態を引き起こす可能性を秘めているように思われる。しかし、この小論で衝動的志向性の働きが明らかになったとは言えない。衝動的志向性が自我の関与していないところで具体的にはどのように働いているのか。その自我との関係はいかなるものなのか。今後の課題にしたい。そうした探究によって世界と自我との関係がさらに明らかになると思われる[19]。
[1] 『純粋現象学と現象学的哲学のため諸構想第2巻』(Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophieは Husserliana-Gesammelte Werke Ⅳに該当する。この小論においては、以下、Husserliana-Gesammelte WerkeをHua.と略し、その巻数と頁数のみを表記する。また、Hua.Ⅲ,Ⅳは、それぞれ『イデーンⅠ』、『イデーンⅡ』に当たる。
[2] 『論理学研究』(Logische Untersuchungen)はHua.ⅩⅨに当たる。
[3]『内的時間意識の現象学』(Zur Phanomenologie des inneren Zeitbewusstsein)はHua.Ⅹに当たる。
[4] 「ヒュレー的音所与は音事象の統一をもつ」(Hua.Ⅸ,417)と言われるように、対象(この場合は音)構成のための素材となるのはヒュレーであって感覚ではない。ヒュレーは統一しながら自我を触発する。
[5] Nam-In Lee,Edmund Husserls Phänomenologie der Instinkte,Kluwer,Dortrecht,1993,S.60からの再引用。同書については、以下、P.I.と略して表記する。
[6] 「知覚的統握という性質の志向的性格が諸感覚を支配し、いわば生化する」(Hua.ⅩⅨ/1,406)と述べられているように、意識野においては、知覚は感覚作用よりも根源的な役割を負っている。
[7] Hubert Hohl,Lebenswelt und Geschichte,Alber,Munchen,1962,S.53、以下、同書については、LuGと略して表記する
[8] 原キネステーゼ的感覚とは原受動的な時間流におけるキネステーゼのことで、非意志的、無意識的に生じるもの。(Vgl.P.I.118)
[9] N.リーは、原ヒュレーを触発以前の、たとえば、「部屋の<寒くあること>」(P.I.116)として性格づける。
[10] フッサールは心情体験も志向的体験であり、構成の働きをしていると言う(Vgl. Hua.Ⅳ,4)。そして、それらにも理論的な眼差しを向けることが可能であると述べられている。だが、そうした眼差しも後から与えられるものであり、身体に生じている心情体験自体は理論的に生じているのではなく、傾向、習性といった個人的な資質に負っていることは否定できない。
[11] あるいは、ベルナウアー草稿では「経験する作用は経験されるものそのものをもつ」(Hua.ⅩⅩⅩⅢ,345)という記述がある。
[12] Klaus Held Lebendige Gegenwart Martinus Nijhoff Den haag 1966、以下、同書についてはL.G.と略して表記する。
[13] 『ベルナウアー草稿』での「作用、諸体験はまさに同じ時間に位置をもち、その時間において構成は遂行される。」(Hua.ⅩⅩⅩⅢ,365)という記述からは、作用とその構成が、すなわち感覚作用と志向的作用が同時的に遂行されることが読み取れる。
ランドグレーベは「触発につづいて起こるであろう把握と観察においては、対象はあれこれの感性的性質、色、等々で示されるから、あるいは、そのほかの知覚によって、すでに対象がこれらの性質をもつということは知られているから、これらの感覚所与はすでに直接的印象のうちに対象の要素として存在しているに違いないということが自明のこととして仮定されているのである」(Ludwig Landgrebe,Der Weg der Phanomenologie-Das Problem einer ursprunglichen Erfahrung,Gutersloher Verlagshaus Gerd Mohn Gutersloh,Germany,1963,S.118)と述べている。この場合、知覚は統覚としての性格を持っていて、すでに知られているものと、まったく初めてのものの間を、すなわち、ヒュレーと感覚の間を揺れ動きつつ、感覚すると同時にその対象を全体として構成していると考えられるのではないか。
[14] P.I.155からの再引用
[15] H.ホールは触発するものをヒュレーと捉え、原触発を行う原ヒュレーでさえ、触発と志向いう継起的相関のなかではあらかじめ与えられていなければならないと説く。もしそうであるなら、原ヒュレーもヒュレーと同様に感覚とは異なるということになる。
[16] 「あらゆる構成されたものが、常に新たに流れ過ぎている」(Hua .ⅩⅩⅩⅢ,373)からこそ、「新たな端緒において、全体が意識されている」(Hua .ⅩⅩⅩⅢ,373)ということが起こる。生きた現在において、ヒュレー的感性の領域では「根源的な連合」(Hua.ⅩⅠ,151)が遂行され、そのつどヒュレーは統一化されていて新たに生起している感覚的刺激を規制しているのではないか。そのとき、ヒュレーと感覚の間では全体と部分の関係が成立している。感覚的刺激は感覚全体の一部に過ぎないが、それは、意識の側からすれば、すでに全体が理解されているヒュレーの一部でしかない。そうした関係には、一つの変化の現象の上にはあらゆる事象の変化がその中に含まれるという、すなわち刹那が全体と一致するという華厳経での理と共通性が見受けられる。作用において互いに妨げることなく相入しているという意味では圓融無礙であり、そこにおいて、ヒュレー的核としての理と現象としての事が相即相入しているとは考えられないか。
[17]「この衝動、もしくは傾向は感性的なものそのものに属し、感性的なものから感性的なものへと進む」(Hua.Ⅳ,337)。。それゆえ、衝動的志向性は外的世界へと向けられている。しかし、そうした作用が生じるときは、また自我が触発を受けているときである。フッサールは原初的に流れる現在において、「受動的底層においては、自我から発するあらゆる作用と自我へと向かうあらゆる触発が、内在的-時間的に受動的に構成され、…」(C17Ⅳ,1,1930-32年、P.I.114からの再引用)ていると言う。
[18] 山口一郎、『他者経験の現象学』国文社、東京、1985年、111頁からの再引用
[19] 最後に触れておきたいのは、フッサールの後期現象学で見受けられるようになった東洋思想との共通点である。後期に移行するにつれて、フッサールは現象そのものへと立ち返るための方途を、純粋自我に定位することから、自我以前の領域へと移していったように思われる。そして、それは同時に「作用」への着目と並行しているように思われる。たとえば、『ベルナウアー草稿』では、「すべての後続する過去把持が先行する同一の系列に関係するように、未来予持的な継続において、すべての先行する未来予持はすべての後続する未来予持に関係する」(Hua.ⅩⅩⅩⅢ,10)とあるように志向性が志向性へと関係づけられ、時間的進行における作用の「絶えざる継起的な合致」(Hua.ⅩⅩⅩⅢ,9)について述べられている。その展開として、「ひとつひとつの線分は、<それぞれの点>へと互いに接近する」(Hua. ⅩⅩⅩⅢ,80)と述べられるとき、今という時点は作用が集約する場所として捉えられているということが理解される。西田幾多郎は作用と対象を相関的なものとして捉え、反省以前にはその間に区別はなく、「物とは作用の統一」(西田幾多郎全集Ⅲ,岩波文庫、東京、435頁)であると言う。また、華厳思想では、作用が相入することによって、心身の区別さえない「一即多」の世界が開かれると述べている。西田では、作用が自覚との連関において論じられている点で、また逆に、華厳思想は、空の思想を背景とし、とくに作用の主体を置くわけではない点で、単純に現象学と比較できるものではないのかもしれない。だが、ともに脱主観、先主観への方途を作用に置いている点に共通性が見受けられ、興味深い。
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