立花隆 最後の旅(NHK,2022年4月30日放送)
を見て、そこでモティーフとされていた「永遠を見た」について考えてみた。
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人間は死ぬべき存在であり、いずれは無に帰する。その次元を超えたとき、超人類のような位階に至る。ところで、人間は言語という恵みによって「いのち連環体」としてあり、歴史的に繋がることができる。一人ひとりが知において努力するとき、千年後、万年後に、想像を絶する世界が開かれる。
氏の主張はおおむね以上のようなものであると理会した。
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「死すべき存在」というのは、哲学を学ぶ者にとっては周知のごとくハイデガーの用語である。ハイデガーは有(それ自体)と無とを対立的なものと考え、有は無という帳を超えて、人間に向けて開かれるとした。その方途とされたのが言葉であった。有と無を相互に相容れない対立的なものとし、区別するのは合理性を是とする西洋思想の基本的な枠組みである。
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私は、しかし、それとはまったく異なり、有は無に他ならないと考えている。 たとえば、生物的生は細胞が生死を刻むことで営まれ、生自体は死を考えることで意味の対象となる。つまるところ、生は死に他ならない。生死という矛盾は本質的に同一であり、そこに色即是空、空即是色(有るものは無に過ぎない)とする東洋思想の理念がある。
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時の物理的流れをベースに置く思惟は形而下的思惟である。書斎を埋め尽くす氏のおびただしい書籍からは思索とともに過ごしたであろう生前の日々が彷彿とされる。その研究態度は想像するに実証主義的であり、根拠とするものは科学であった。「永遠が見えた」というのも、古代遺跡を観察しての実感だとすれば、「永遠」を時間の総体として考えたであろうことは想像に難くない。
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仏教は「百千万劫・・・」と語るごとく、時間の総体を否定しない。しかし、他方で、「一即一切」を理念とするように、刹那のなかに永遠を見つめる思量がある。それは科学的態度では決して至ることのできない領域にある。
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無を無意味と考える思念が、死後はゴミに、という言葉から窺われた。それは、おそらくは、世俗的気晴らしといったものの余地のない、思索によって満たされ、そして、既に燃え尽きているといった感慨の裏返しとして発せられた言葉なのだろう。幸福な人生であったに違いない。
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※ハイデガーの気晴らしの原題はdas Gerede(空話の意)。ピカートは現代で語られている言葉は騒音に過ぎず、真の言葉、会話は失われていると説く。
2022,05,03
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