言葉は事実を映しえない。
ニーチェは「事実は無く、解釈だけがあるのだ」と述べた。ここで語られている事実とは、もしそれを言葉に照らしてみるなら、言葉によっては捉えられない事実を指している。事実の世界は意味的世界よりはるかに豊饒であると想像される。では、事実は那辺にあるのか。
身体に触れる言語
M・フーコー『狂気の歴史』より
佐藤幸三
序
フーコーは世間で使用されている言語領域の外に、すなわち狂気の領域に真なるものの隠されている可能性を『狂気の歴史』[i]で示した。「狂気は・・・、真理と自分の言語活動との綜合をおこなう力をもっていなかった」(538)ので自らを表現できずにいたが、自分固有の真理を所持しているというのである。狂人は、実は「人間の深い真理」を携えているというが、この真理とはいかなる真理なのか、また、狂人は監禁されている間に「自分のものである一つの言語」(416)を獲得したと言うが、狂人が言語をもつとしたら、それはどのような言語なのか。この小論では『狂気の歴史』に依拠しつつ、フーコーとは異なった視点から言語について考える。
§1、意味的言語と感性的言語
狂人の真理、自由は世間で使用されている言語とは別の場所にある。だから、社会秩序が世人の言語によって維持されている限りにおいて、狂人は社会からはじかれる。フーコーによれば、「一つの行為の狂気性はどんな理由によってもその行為をきわめつくせないという事実によって判定される」(542)。ここで表記された「理由」とは世人の用いる言語によって語られる理由であろう。こうしたことから、もし狂人の言語といったようなものがあるとすれば、世人の言語との間の溝は深いと想像される。いったい狂人はいかなる言語を使用しているのだろうか。
言語は真理を体現する一つの道具であるが、真理の側から言語を考察してみることは一つの試みであろう。はたして、狂人にとって真理とはどのようなものなのか。フーコーは、狂人が携えているのは人間の基礎的な真理であると言う。それは、具体的には、文明によって発生した狂気がそれを発症する以前の原始人未開人の生活とともにあったもので、より具体的には「身体器官的なもの」(541)である。であるとすれば、狂人がなにがしかを語るとすれば、それは身体とともにある言語であり、意味を伴っている理性的言語からは区別される感性的言語であるはずである。感性的言語の特性はたとえそれが発せられても意味を十分には伴っていないということにある。他方、理性的言語は語音一つひとつが一つの纏まりとして揃い、それが意味を成すまでは理性的言語としての機能を果たさない。二つの言語の間の違いは時差にある。もし理性的言語がある対象を指示しているとするなら、意味が形成される間に当該の対象は私への現出(現象)としては消失しているので、理性的言語は対象を生き生きと捉えることはできない。意味が成立するとき、現出はすでに過去のものとなってしまっているのである。主客(自我と対象、語りと語られるもの)の間に分離がある限り、意味的言語は時間的には事態に即応しえない。理性的言語はつねに遅延するというハンディのうちにあるので、いつまでも身体的、感性的言語に追いつくことはできない。フーコーは「狂人のなかに人々は人間の深い真理を発見する」(540)と言うが、それはおそらくは世人が普段使用している理性的言語では届かず摑み得ない世界への気づきである。そこに「破廉恥」(同)を見るというのは、平生は意識もしていないが、ひとは意味を伴わない身体的次元においては狂人と決して違いはないということを認知するということではないか。精神的自我の底に裸の自分が現前としてあるのを発見するとき、ひとは意味を伴った言語から感性的な言語へと回帰し、裸となって裸の言葉を叫ぶのではないか。理性的言語は語音を追って意味を後から構築する反省作用が働いている。平生の言語使用において、世人は反省的に自己を意識しつつ言語を用いているのであり、そこでは裸の自分は捨象されている。ここで語られている身体は「人間がそこから生れているさまざまの睡眠形態」(540)の象徴であり、狂人、世人双方にとっての基盤であり、世人からすれば発見が待たれている場所である。身体的自己への眼差しを持ち、それを受け入れることは、世人にとって本来的自己への回帰であり、また狂人にとっては固有の言語世界に存在するということを意味するはずである。文明漬かった世人はそこに自らが生まれた起源としての赤子を発見する[ii]。
§2,言語そのものにおける感性的、理性的性格を改めて問う。感性的言語と理性的言語の一致が可能にすること
言葉は語音と意味から成るが、語音は現実世界で響き、意味は意識において成立するという二義性を負っている。両者の関係に必然性はなく、たとえばフッサールはその結びつきを心的なものとした(『論理学研究』)[iii]。心的作用によって語音を意味と結びつけ言葉として成立させるためには、自我は意識野に貯蔵された意味の体系を反省的に取り出してこざるをえず、その意味で言葉は意識に支配されることが運命づけられている。意味は音節が全体として統一されたときに初めて語音に宿るので、その点でも語音は常に意味に先行する。純粋な感性的言語とは語音であり、それはまとまった意味の表出を意図しない。狂人はまったき感性的存在であり、世間から、意味的言語から遊離されている限りにおいて、本来の自らのうちに有り、生き生きとして在る。この生き生きとしたなかで狂人が真理を担っているとしたら、感性的言語のうちにこそ真理が宿っているという可能性は否定できない。そこで狂人の真理に至るために要請されるのは、言語を音と意味という二義性においてではなく音を意味とともに捉えるという試みである。
意味的言語と感性的言語の時差なき合致ははたして可能なのだろうか。その難しさを『狂気の歴史』のなかに求めるなら、狂人が言語活動を自分の対立物と捉えるという事実により(549頁参照)、あるいは、ひとが狂人のなかに真理を見出しながら狂人にはなれないという言明によって説明できるだろう。ふたつの言語は弁証法的な関係においてしかない。では、現代人が狂人であって、狂人ではない二律背反に宿るとされる真理、フーコーが「狂人の謎」(550)と言うところのものを開かすことは不可能なのだろうか。その謎を開かすことが真理への道程であり、狂人の治癒の完成であると想像される。狂気の内容そのものを出発点としてこそ、治療が可能である」(542)とあるように、狂人の真理を世人の言語で把握することは一面的な把握にしかならないのである。狂人の治癒は狂人の言語を世俗のそれとして受け入れるところに成り立つ。その具体的な方途は言葉が感性的に発せられたと同時に意味として捉えることのうちにある。感性的言語と理性的言語の合致するところに真理の開示があり、それが可能になる時、世人は狂人とともに真理に照らされるのであり、両者ともに反省における対象である自己(自身)との一致を経験すると推論される。
§3、身体に触れる言語
狂人にとって自然状態的、身体器官的なものが真理であるなら、たとえ理性的言語を獲得できたとしても、それは世人にとっては治癒であっても狂人にとっては真理の喪失に他ならないだろう。フーコーによれば、狂気とは文明の展開とともに歩んできた意識と依然として自然とともにある身体の間に生じるズレなのである。身体から発せられる言語をこの小論では身体的・感性的言語として呈示したが、それはより具体的にはどのような性格をもつのだろうか。身体的、感性的という語句から連想されるのは、意味を伴わない、たとえば何らかの合図や信号として発せられるような(原始人の)言葉であるが、フーコーによれば、それは現象形態としては沈黙としてある。狂気は真理を把持しながら、「真理と自分の言語活動との綜合をおこなう力をもっていなかった」(538)がゆえに沈黙せざるをえなかったのであり、不完全な言語である感性的言語は先-言語として意味化に向けて待機していたのである。狂気における言語活動の特性は、「ぎりぎりの終末についての言語活動であり、しかも絶対的な再開についてのそれである」(539)という。狂気は世人の世界を沈黙として耐え抜くのであり、それは醸成を俟ってやがて光となって最初の開始をつげる。こうして生起した新たな言語は、フーコーが語るに、「ふたたび見出された起源のなかで、その嵐を照らし出し静める一種の瞬間の稲光りがもたらす、抒情的な回帰についての言語活動」(539)であるという。人間の深い真理を教唆するというこの言語によって発見される事態は、内面的なものがひとしく外面的であり、極度の主観性が客体による無媒介な呪縛と合致し、すべての終りは執拗な回帰と結びつくような事態であるという(540参照)。再び開始される言語活動で、狂人は「抒情中心の炸裂として」の言語を語るという(同)。そうした事態が、もし真なる事態として証されるなら、内的なものがそのまま外的であるということだけをとっても、その世界では意味的言語と感性的言語の合致の可能性が見いだせるであろう。フーコーは、またその具体相をゴヤの「夜のなかに投げ込まれた人間の狂気」(552)によって呈示している。深い闇のなかで展開されている世界は常軌を逸しており、理性的道理をもたない。そのなかで狂気は孤独とともに、やがては開始される光を待つ。この例においても狂気は「終りであり始め」(553参照)であるという。終りを始めと結びつける思想をフーコーはニーチェの「永劫回帰」論によって根拠づけ(560注)、それを詩的な言語活動と言い換えるもののそれ以上の説明はなく納得のいくものとはなっていない。その具体相を『狂気の歴史』のなかでの例示からさらに探るとするなら、次のことがヒントになるのではないか。フーコーは、最後に狂気を創作活動との関連において特徴づけている。それによれば、狂気と創作活動の間には恒常的な交流、言語活動の伝達といったものはなかった。狂気は創作活動の真実が停止し永久に歴史のうえに突き出ている、その出発点にある決断であるが(558参照)、また、創作活動の最終的な瞬間としてしか存在しないものであるとされる(559参照)。狂気とは、言語(活動)の不在であるので、何某かの意味を打ち立てる創作(活動)とは両立しないということは理解できる。理性的言語によって既に定立されてしまっている過去の世界は世人の世界として性格づけられているが、定立されることを待つ世界は言語以前の世界として先存在しており、その意味では非理性的非言語的なものとしてある。その世界にそれまでは狂気とされていたものが新たに創造されたものとして介在する余地のあることは否定できない。創作活動とは言語の不在を引き受けつつ意味がまだ及んでいない領域へと自らを企投し、世界を席巻する試みである。では、「創作活動が存在するところには、狂気は存在しない、けれども、狂気は創作活動と同時期のものである」(559)とはいかなる意味だろうか。フーコーはそこに創作活動と狂気がともに生れ完了する瞬間があると言う。意味とその不在、無意味という相反する性格が同時に有るとすれば[iv]、それは意味が生起しつつ未だ成立していない刹那、すなわちメタファーとして有ると考えられる。メタファーは狂気と創作の間である。
結 語
狂人の真理は人間本来の真理でもあり、それは文明がもはや失ってしまった自然状態のうちにある[v]。その真理は言語の領域においては意味を伴わない感性的言語としてあり、世人が使用している意味的言語とは相容れない関係にある。どちらかに比重が置かれれば、それは他方への強制となって現われるが、しかし、両者がそれぞれ互いを必要とし、それによって自らの存在を有らしめているということも事実なのである。互いに排斥しつつ、他方を要請しているという関係を本論ではメタファーとして示した。真理の開示とは語音と意味が触れ合う刹那にあるが、その妙としての刹那は完成した意味として開かれることは決してない。
『狂気の歴史』は狂気(感性)と理性の間の弁証論の一つとして捉えられる。感性的言語は意味を待ちつつ現出する。それが言葉の発出者によって意識されずに為されるとき、その言葉は狂気としての性格をもつ。狂人の言語は「伝達」を必要としない言語である。しかし、それは真理の先端を現しめているのであり、その場所は把握しようする刹那に手中から逃れていく。狂人の真理はどこまでも世人の彼岸にある。
註
[i] ミシェル・フーコー『狂気の歴史』田村俶訳、1975年、新潮社、東京。以下、同書からの引用は頁数のみ表記する。
[ii],狂人を考察しながら、フーコーは人間の究極的な真理が 「原始人の自然」(541)にあるとする。身体は原初的な欲望の場所であり、そこに人間の基礎的な真理が宿っている。では、人間の成長の過程で最も身体的、感性的な時期を過ごすと考えられる赤子を狂人考察の手助けとすることはできないだろうか。E.フッサールは、赤子がすでに習慣性を持ちながら、しかし、自らへの反省作用を欠いていると述べている(HusserlianaⅩⅤ,S.605)。赤子は理性的言語を使用しない点で狂人と共通していると思われるが、それは具体的にはともに「反省作用」を欠いているということである。「反省作用」が働いていないということは主客未分の状態にあるということである。また、フッサールは感情、感性的キネステーゼ、総じて感性的なものともにある本能が能動的意志、価値づけ、意味づけの先段階としてあることを述べたが、感性的言語を論じるにあたって本能的志向性に依拠できるのか等々、その考察は今後の課題となる。
[iii] E.フッサール『論理学研究2』(みすず書房,東京,1978年)第一章とくに第8節、第9節。
Husserliana,ⅩⅨ/1,Ursula Panzer版,S.41~S.45
[iv],狂気は沈黙するか、あるいはその発露として『ジュリエット』の例に見られるように自然を征服するしかなかった(556参照)。そして、狂気と創作活動の関係においては、狂気は創作活動をのみ込み、世界に歩調を合わさせるものとして性格づけられる(559参照)。
[v],世人が狂人を見て自らの本性に気づくということから、フッサール哲学を視点とすれば、狂人の自然状態は(世人にとっての)空虚表象Leervorstellungとして彷彿される。
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