宗教的に


宗教的に

 思うところあって、今年から横浜の総持寺に参禅している。日本的な心情、 環境の動静に左右されない平常心、そうしたものは禅を行じることによって感得できると聞く。

 先日、朝の勤行の後で初老の男性と話をする機会があった。戦時下にあって、死が畏怖されてならないときに、彼は禅師に救いを求めた。それに対して、禅師の口を突いて出たのは「花は紅、柳は緑」というきわめて短い言葉であったという。

 身綺麗な紳士が感慨深い面持ちで語るのを聞きながら、私は、「ああ、これが禅なんだな」と思った。花が赤いというのはひとつの事実である。柳は緑というのはその再認であろう。けだし、禅師はその言葉によって事実をありのままに認識し、それを甘んじて享受すべきことを訴えたのではないかと思う。

 執着心があるから苦も起こる。戦争を容認することは決してできないが、それもひとつの事実として受け止めてしまえば、何も怖れる必要など無くなる。生を受け入れた時点で死はすでに予定されている事実であり、生に真摯に立ち向かう勇気にとって励みにさえなる。

 観点を変えるなら、「死」はやがて来るものではなく、むしろ人間はそれを消化しながら生きているとも云えるだろう。たとえば、肉体のなかで細胞は常に新陳代謝を繰り返している。絶望で満たされているとき、回生のための精神的な死はしばしば経験される。そんなことを認識しえたとき、「生」は充実したものとなり、死は自然なこととして受け入れられるようになる。

 とは云っても、死はやはり生を限定づけるものとしてある。しかし、畏怖するという凡庸な心があってこそ「悟り」もまたあるのであり、両者は並行してこそ、ある。人間にとって、悟ってしまったということはありえない。私はできているというような態度を匂わせている人があるが、そんな傲岸不遜な性質を持ち合わせてしまってはお仕舞いである。いうなれば、いつも悩んでいるからこそ人間なのだ。

 人の集まる処にはうんざりするほどの不愉快がある。それを感じたとき、「憎」を「憎」で返したり、逆に「愛」で広く受け止めようなどという次元で考えるから苦しくなる。多くは取るに足らない小さなことだ。そう許容する心構えがあってもいい。なぜなら、元来、一切は「空」であるから。一切は無であると認識する広大な心、それが禅である。そこから、ちっぽけな私心を去った慈悲が生じる。仏教的な愛はこのように自然に生じる。

 坐禅を始めてからまず私の心を打ったのは、雲水たちの修行に対する真面目さであった。

 青春の一時期、多くの人が経験するような挫折に出会って、私は私のうちで「わたし」が音をたてて瓦解していくのを聴いた。そのとき、私は私の矜持はまったく空しいものであったことを理解した。それから、私は自らの再興に必死になった。そして、以前にもまして本を読むようになった。理知にしか拠り所のない一郎の気持ち(夏目漱石『行人』)は痛いほどよく分かった。そんな私を出会う人は必ずと云っていいほど真面目だと評した。変わっているとも言った。

 人はそれぞれ世において自己の生の責任を負わなければならない尊い存在である。だから、大衆的ではないことは私の誇りであった。しかし、その反面、私には孤立感も働いていた。「真面目だ」と云われるたびに、なんだかからかわれているようで嫌な気分になるのも禁じえなかった。雲水たちの修行の姿はそんな私に勇気を恵んでくれた。私の真面目さはまだまだ半端であったという自覚とともに。私はさらに真面目に生きてみようと決心した。自己を明らめてみたいと願った。

そう思ったとき、私を悩ませていたある種の憂苦が消えた。

                             一九八七年五月末日


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