生死(しょうじ)を離れる(仏教は「死」をどう考えるか 3)
一般に、時間は不可逆的に流れると考えられている。
しかし、そうした思念に囚われている限り、やがて訪れる死は畏怖の対象となる。
浄土教系の仏教は死の向こう側に浄土があると説くことによって、その超克を試みるが、
では、禅宗系、道元はいかに説くか。
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正法眼蔵、生死の巻に、
「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。・・・仏法の中には、生すなはち不生といふ。・・・滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらばただこれ生、滅来らばこれ滅にむかひてつかふべし。(生から死に移るのだと思うのは、まったくの誤りである。・・・仏法においては、生はすなわち不生であるという。・・・滅はすなわち不滅であるという。つまり、生というときには、生よりほかにはなんにもないのであり、滅というときには、滅よりほかにはなにものもないのである。だからして、生がきたならば、それはただ生のみであり、滅がくれば、それはもう滅のみであって、ただひたむきにそれにむかって仕えるがよいのである)」(生死『正法眼蔵』、増谷文雄訳)
と、ある。
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ここでは、「生」と言えば生以外にないので、生きている間は、ただ生にのみ仕えるべきであり、死について、総じて、生死について、あれこれ想いを巡らせることが戒められている。
仏教は思量、不思量という次元を超えて、非思量(考えられること、考えられないことを超えて無私となること、道元にあっては「身心脱落」の境地)に達することを修行の一目的とする。道元は「悟に大迷なりは衆生なり」(悟りに執して迷いに迷うのが衆生である)と述べているが、
しかし、何も思案せず、只打睡(ただただ怠惰に過ごすこと)していては心から安心(あんじん)する縁(よすが)も得られない。
寛恕を請いて、思弁する。
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西洋中世世界を支配していた神概念の束縛から解き放たれたとき、
代わってデカルトのcogito(ego,自我)が世界を席捲した。いわゆる、近代的自我の発見、「自我」の目覚めである。
爾来、西洋社会は「主観-客観」というパラダイムに呪縛された。二十世紀になって心理学的な無意識、脱構築といった思考は芽生えたものの、根底では「自-他」が働いている。そこでは「私」の所在は「此処」に置かれる。他方、時間は「此処」を基軸にして時を刻む。「此処」と「今」とは互いに切り離せない命運の下にあり、時は、私を包み、私に向けて、朝を夜に、さらに夜を朝へと、繰り返し景色の移ろいを演出して魅(見)せる。
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自我は、「此処」にあり、物理的時間としての「今」の下にあり、それに縛られる。
それに対して、身心脱落は時の流れを無化する。
は私から、そして、此処から解き放たれ、無我となり、環境となる。木となり石となり、総じて、時間となる。
仏教は諸法無我と言う。
無私とは実体なき現象であり、
たとえば、光とともにあり、一光年先にあっては一年前の私を見る。それでいて、「私」は消失されるのではない。私は「私」から解放され、自由になることによって、「私自身(大我)」となる。
逆説的だが、私の底にはもうひとつの私がある。
「自己をならふといふは、自己をわするるなり」。
無我となるとき、私は不可逆的時間から解放され、あらゆる此処-今において在り、
そのとき、また、時は意味を持たなくなり、
止まる。
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私は「私」であり、「私」ではない。
それとともに、時は流れ、且つ、止まる。
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生死の巻、
生はすなわち不生であり、また、滅はすなわち不滅である
もし、生が不生(死)であり、滅(死)が不死であると意味しているなら矛盾の関係にある。
それに対して、後段では、生と死は別個のものであり、生にあっては生きることに専念し、死に至ってただ死に仕えろと一般的な道理を述べている。
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では、前段と後段との関係はどのように理解できるのだろうか、
(迷いに迷ってみると、)
矛盾関係となるのは、「今、此処」を基点とするときに生じると考えられる。
無我における「今」は双方の視点を包括するのではないか、と。
また、そのうえで、無我における今を生きろ、と語り掛けているのではないか、と。
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異なる道のりではあったが、生死を離れるという点では合致したように想う。
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生は不生、滅は不滅。 無我(無)となるとき、大我(有)が性起する。
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悟に大迷なりは衆生なり、
まことに恥ずかしい限りではあるが、
凡夫であることを自覚しての物言いである。
2023,12,23
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