従容として死を受け入れる(仏教は「死」をどう考えるか,2
Eテレ「こころの時代」アーカイブを通して、昨年逝去された青木新門という方の話を聞いた。なんでも三千人もの死者の納棺を務めたということで、経験談から死者の尊厳を感得するとともに、私なりに、また、死について考える機会となった。
生態的には死は生の彼岸にある。そのことは理解されてはいるものの、自然に受け入れられているとは言い難い。あまり意識したくはないもの、あるいはネガティヴなこととして死について考えることを退け、できる限り健康で、長生きして人生を謳歌したい、人はそう考える。かりに、意識することがあっても、生とは相いれないものと脇に追いやり、ある人は、気晴らしや趣味に没頭し、また、ある人はライフワークに勤しんだりする。それが悪いことだとは思わないが、刻々と死を迎え入れていることは現実なのである。
青木さんから紹介された言葉のなかに「無碍光(むげこう)」があった。仏教で表現される光は陰を成すこともなく凡てを照らすというものである。司会者の補足によれば、それは光明、仏性、真実、清浄(しょうじょう)とも換言できるという。大乗仏教では慈悲、大悲と言うが、仏心に基く私心のない回向(えこう/善根、功徳を他に振り分けること)を意味するものではないかと思われる。
この話を聞いたとき、現代物理学で語られているニュートリノが脳裏に浮かんだ。ニュートリノはあらゆる物質を障害とせず素通りしてゆくと言う。その性質と無碍光との類似性を知るに至って、物理学で論じられていることの幾つかが宗教、哲学で語られてきたことと類似点のあることを改めて確認した。
たとえば、見たときにのみ現れるという素粒子の性質は、バークリーのesse est percipi(有るとは見られること/物は見られたときにのみ現れて有り、見ていないときは消えて無い)という理論の実証であるかのような印象を受ける。また、物理学者ロべッリの「時間は存在しない」という主張は、道元が有時(うじ/簡略して述べれば、昨日と今日との間に差異はない)の巻において既に述べている。さらには、物理学が宇宙を構成しているとしている物質と反物質との関係である。反物質は発見されてはいないが、物質界のどこかに紛れている可能性があると言う。物質という有と反物質としての無は別個に存在しているのではなく、混交して働き合っているに違いない。
現象世界では有と無とは互いに作用しあって存在している、というのが私の理解である。形而上学的な有の存在を想定してしまうと、必然的に、無が問いとなるが、無は、字義通り、無い。無という文言、あるいは事態は有を前提とした場合に想定されるのであり、たとえば「生(物という存在)は有である」という命題が成立するとき、初めて、「死は無である」という命題も成立する。
ちなみに、チャンドラキールティは『入中論』において、「物事一切は空でも、空であることから生じることになる」6-38abと語るが空、無とは何か、説明していない。
では、生という有は死という無とともにある、と考えることはできないだろうか。
この場合、死は生物学的死を意味しているのではない。そうではなく、生は死(生観)とともにあるというのは諦観であり、また、そこに立つとき生は生として開かれる。有は無とともにあるとき、その本来的意味は開かれる、と。
青木さんが語るなかで、或る死刑囚が死を恐れるということもなく、さながら喜々?として刑に服したという話があった。その受刑者は、おそらくは、その前から、あらかじめ死とともに生きていて、従容として死を受け入れたのではないかと想像する。
生と死とを対極的なものと捉える思考は、有と無とを決して相容れない関係とする合理主義的西洋型思考、あるいは視覚的整合性に依拠する科学の影響ではないかと思う。死を限定するものと考えると絶望という二文字が思い浮かぶが、止観(心を静め、観察する)すれば新たな視点と生への態度も産まれる。死あってこその生だと思う。 人は死ぬ、のではなく、死ぬものである。止観すれば、無漏の境地に入り、それは生死(しょうじ)を離れるということでもある。そんな境地に至ったとき、おそらく歳を重ねるということも楽しく思われるようになるに違いない。
2023,06,14
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