もののあはれ(BSアーカイブス)2019,09,17
ヴァレリー・アファナシエフ。「静寂の中から立ちあらわれる〈もののあはれ〉を奏でたい」と京都の寺でシューベルトを弾いていた。
アファナシエフは孤高のピアニストである。孤独とともに生きている者だけに許される深くて、澄み切った世界が彼には与えられているようだ。 高校生の時から日本の文化、能楽、また、古今和歌集、源氏物語に強く魅了されてきたという。そして、〈もののあはれ〉とは移り行き、はかなさ、無常観。源氏物語は愛するものとの別れと喪失、仕合せ、不仕合せがまじりあって、それらが切り離せないことを極めて美しい形で表現している、と。
音楽に休符があるのは何故かと問いつつ、沈黙が立ち上がるそのとき音楽は自分自身に耳を澄ますから、と言いつつ、「静寂が聴こえなければ音楽は存在しない。・・・(演奏家は)始まりから終わりまで静寂を途切らしてはならない。音楽とは静寂を聴き取るもので、どんなにフルオケがフォルテシモで響いているときでも、そこには静寂が宿っている」と語る。
彼と対談していた能家の金剛永謹さんがフルトヴェングラー、クナーパッツブッシュを引用しながら「無にすべてがある、無音にすべての音がある」と語ったことには納得した。 シューベルト、ピアノソナタNr.21には死が漂っている、生と死の間をさまよい、美しさと恐怖をあわせもつこの曲には光と地獄が共存しているそうで、静寂が響き渡っているこのソナタを聴くだけで「もののあはれ」は十分に理解できると説く。
初めてシューベルトが理解できたような気がした。 有とは無の別名である。
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