マルクス・ガブリエルという哲学者が人気を呼んでいるそうです。
放送を見た限りでの見解ですが、 彼の言うことは、哲学を学んでいる者にとっては既知のことであり、珍しい文言は何もないように思われます。 もし彼の著作が愛読者を多く獲得し、既存の哲学書が売れていないとすれば、それはこれまでの哲学者と名乗っている方々の発信不足というか、表現力の脆弱性に起因するのでしょう。
彼は世界という全体は無く、確かな「ものさし(尺度)」など無いと言います。 世間一般で思考の根拠とされているのは1に1を足すと2になるという、いわゆる数の定理です。しかし、その公式はたんなる約束事であり、真理ではありません。水一杯に水一杯を足しても水は一杯です。これに限らず、世界には数式では説明できないことが多々生じています。哲学とは、第一に、世界で常識とされていることなど、既成の世界観を崩し、再吟味し、再構築することを使命としています。
彼は、既存の概念をこれまでとは違った視点でディスプレイすると言います。 その目的は、(私の見間違い、聞き間違いでなければ)どうも真なる自由の探求ということにあるようです。 そして、これも私の誤解でなれば、彼はその思考の根拠を、どうも「意味」に置いているようです。
私たちは意味を道具にして「考え」ます。では、「意味」とは何なのでしょう。言葉(意味)は物事を区別するために用いられます。 言葉が生まれる瞬間に「私」と「あなた」は分けられ、同様に「私」と「物」、「物」と「物」は分けられます。 そこには私の主観が含まれ、同時に「他」の主観化が生じます。意味そのものを吟味することなく意味を根拠にすることは自ずから予断を産みます。もし、真の自由というものが「己へ囚われ」からの解放をも意味するとするなら、意味を前提していては真の自由は得られないということになります。人間が「意味」を扱う理性的存在であるとするところからは真の哲学は起こりえません。西洋哲学は、どうも、「意味」を金科玉条のごとく見なす呪縛のなかにあるように思われて仕方がありません。それに対し、仏教は言葉に呪縛されない世界に真を置きます。
言葉によって「分別」は起こります。意味を超えた世界にガブリエル氏が「いろいろな物は重々無尽に関連している」と述べるところの世界があります。
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