心惹かれる言葉遣い
若い頃、年長者が「よいしょ」と声をあげながら行動をとるのが不思議でならなかったが、いつの頃からか、気がついたらそんな声を挙げていた。「今どきの若い者は・・・」が胡散臭かったが、そんな物言いが胸のうちで響くようになった。
世間で使われている言葉遣いでそれほど多い訳ではないが、ただ頻度が高すぎて辟易と感じる言葉がいくつかある。「ら」抜き言葉は今や日本語を専門としている若い教師でさえ常套語としているのだから、方言全国区と言えるだろうか。テレビの字幕では必ず訂正されているが、まったく効果はないようで気にも留められていないようだ。言葉遣いの世俗化はそれに留まらない。テレビで何某かの専門家と称する人が「・・・・の形で」と語り出すのを聞くと、それが気になって話の中身には入れなくなってしまう。以前、或る職場で、「・・・の形は・・・の形でお願いしたいのですが」とか物言いされるのを聞いて、それってどんな形してるの?と揶揄したことがある。「・・・の案は・・・の段取りでお願いしたいのですが」とでも言うべきところだろう。 店頭での客あしらいはさらに酷いもので、「・・・でよろしかったでしょうか?」と訊かれて、「未だ何も言ってません」とけっこう真面目に応じたことがある。 お釣りがあるわけでもないのに「・・・円、お預かりします」と言われるたびに、心では、後で返してくれるの?と言葉が浮かぶ、たまに、「・・・円、頂戴します」と言う店員がいると握手さえしたくなる(笑?)。 そんな言葉遣いにどっぷり辟易している昨今、昨日、とあるスーバーで買い物をしたとき、「・・・円のお買い上げです」と発した店員がいた。途端、心に清風が過ぎった。そして、未だ二十歳(はたち)にも満たないようなお嬢さんの顔をしげしげと見つめてしまった。 言葉遣いによって言葉の主は如何様にでも映る。私は、言葉を大事にしない人に敬意を抱くことはないし、また、できない。言葉にこそ人柄と品位が宿ると言ってよいと思う。
老人が増えたからか「認知症」が話題となって久しい。その対策はさまざまに語られているが、一言一句、言葉を考えて遣うことこそが最も効果的な方法ではないかと思う。 「言葉の限界が、(その人の)世界の限界である」とはヴィトゲンシュタインの言葉である。言葉の惰性的な使用は思考のまんねりであり、脳は錆びていくのではないかと想像する。考える人は言葉を大切に扱うと思う。
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