キリング・フィールドいう映画、日本人なるもの
映画をたんに娯楽とするか、あるいは某か意味あるものとして観るかは人それぞれだろうが、私は、実話に基づいて「生きる」という視点に立って制作された作品が好きだ。
「キリング・フィールド」、カンボジアでの内乱を題材とした作品に多くの賛辞が寄せられているなか、「虫酸が走って怒りが収まらない」という一つのレビューに眼が止まった。投稿者はクメール・ルージュに字幕が付かないのは人間として見ていないからで、そのことによって殺戮が不自然なものとはされていないのは、まるで「丸太」(註、戦時中人体実験の犠牲となった人々を指すと思われる。)の扱いと同様ではないかと疑問を呈し、白人と懇意になるアジア人を感心な人物として描いていることに偏向を観て取ったのである。
字幕を付けなかったのが製作段階での意図なのか、もしくは日本国内に限ってのことなのか、また、レビューで記述されているごとく、この作品が観客の敵意を煽る扇動映画なのか、疑問は残る。ただ、欧米人の視点に立って製作されているという論評は頷ける。もし、内乱そのものに、それによって争うことの不条理に少しでも焦点を充てていたら映画ファンの歓心を失ってしまうのだろうか。他の投稿者は字幕のないことでよりいっそうジャーナリストの不安感、緊迫感を感じたと述べていた。だが、他ならぬ現地の人々の声を聞くことで、深刻な事態はより深く理解できたと思う。 映画は、小説と同様に、どこに視点を置くかは製作者の勝手ではある。しかし、「戦場にかける橋」にあっても感じたことだが、歴史的事件を題材にする場合は、その客観性に疑問がもたれることがあってはならないと思う。
デカルトが「自我」を打ち立てたとき、西洋社会での主人公は神から人間へと移った。 人は事象に意味を与えることで世界を自分の色に変える。個人が世界へと参与するためには主観的意味は客観性を帯びなければならないが、その度合いも人それぞれで客観的な規準があるわけでもない。確執が起きたりすると、それこそ客観性のない「常識」という個人的な規準で他人を裁いたりする。
哲学は客観的意味の形成へと努力を重ねてきた。個人の域を超えた意味を創出するために打ち出された概念の一つが、カントが使用したtranszendental(先験的、超越論的)である。その概念は、簡潔に述べれば、感性で受けた印象を省察して根拠を与えるというものだが、しかし、それも「自我」を場所としている限りにおいて主観性の域を超え出ない。transzendentalは「先験的(経験に先立つ)」と「超越論的(自我を俯瞰する)と邦訳においては二つの意味を持つとされるが、両者は、実は相対立する意味をもつ。「超越論的」と言うと、それは自我を基盤にしていて、Geist(精神)に基づき超越的なものに畏敬の念を持つという意味合いと背景がありドイツ的色彩が濃い。日本人にはむしろ「先験的」が似合う。
ふたつの民族はしばしばその類似性と相違性が語られるが、それはtranszendentalに起因している。両者は共に超越的なものを尊重する。しかし、視座に決定的な違いがあり、ドイツ人のそれは超越「論」的で思弁に基づいているのに対して、日本人は先験的で経験以前の(超越的)感性を重んじる。神社、寺を訪れては手を合わせ、どのようなご利益があるかには関心を持つが、たとえば、寺社がそれぞれいかなるものか、あまり深くは考えない。それは表面的には浅薄のようでもあるが、日本人は言葉以前の世界を大事にする民族なのである。言葉で意味づけする以前の世界に真理と智慧を見る。詐欺が横行する世相に合って、それは少し危ういのだが、古来、日本人は言葉以前の共感に信義を置き、そこに美徳を置いてきた。そこには、「私」といったものは無い。
言葉は対立を生む。たとえば、「光」と言えば、「暗闇」がある。しかし、それらはともに同じ場所にある。
しかし、最近、「私」が顔を覗く場面が多々見受けられるようになった気がしてならない。些末な例だが、最近、車を運転していて細い道に入りかけた時、対向車に気づきバックして道を譲った。助違いざま、対向車から「突っ込んでくるなよぉ」と若い女の声が轟いた。 最近、道を譲ってもほとんどのドライバーが当たり前のように過ぎ去ってゆく。以前、譲られれば何等か礼サインを送り、譲った側もそれに応じたものだったが、 心の無い世の中になったものだと思った。日本人が美徳としてきたものは終焉を迎えているのだろうか。
2020,05,23
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