言葉の成り立ち、西洋人と日本人(「筑波哲学 31号」に寄せて)
およそ一か年かけた小論を昨日まとめ上げ、筑波大学紀要向け投稿しました。表題は「対象認識と意味、表現の起源」です。
日本語は外国語に比べて語彙が豊富だと言われていますが、しかし、それでも森羅万象を表現するには足りません。また、言葉は、哲学では一般に本質と言われているところの、物の奥底に達することはできません。そもそも物からは現象しか与えられていないので物そのものを、敷衍するなら物事の真相を観ることはできないのです。だから、佛教では不立文字と言って、言葉の彼岸に真理を求めます。しかし、物事は言葉で語らざるをえないので、禅仏教では真理を解き明かすのに例えば禅問答(公案)という方法を用います。
いったい、言葉の力の根源は那辺にあるのでしょうか。
言葉は声を発することから始まりました。エクリチュール(書字)が発明されるまでの長い間、言葉は音素、音声に意味が与えられることによって発達してきました。音声は言葉の母体であり、それゆえ意味より広い、それゆえ、また、深い意味を萌芽として含意しています。音は豊かなので、意味によっては埋め尽くされず、その溝が埋められることはありません。
術である詩はわずかの言葉で散文よりはるかに多くの意味を含意しています。
それが極端にまで至ると、一音が、あるいは無音が無限の意味を含むということになります。そうした事態は仏教では「維摩の一黙」として表現されています。沈黙のなかにこそ多くの意味が込められるということは日本人ならよく理解されるところだと思います。西洋人はイエスかノーかで思考し、交渉事でもIt’s deal.と言って確認し合いますが、日本人はしばしば暗黙のうちに互いに了解しあったりします。
西洋では物事を白と黒、あるいは、有と無というように判明に区別しようとします。それに対して、日本には物事を曖昧にしておくという智慧があります。そのほうが互いに傷つかずに済ませられるからです。
釈迦は有でも無でもないということを悟りとしましたが、私のモティーフは、有は無であり、無は有であるということです。こうした理解は昨今、物理学でも見受けられるようで、たとえば、量子コンピュータはそれまで区別されていた1と零を同時に存在させるという技術で成り立っているそうです。物質と反物質は共在しているに違いありません。 仏教は差別(しゃべつ)の存在を否定しません。しかし、それと同時に両者との間に壁は立てません。差別という有は無に他ならないからです。そうして仏教はすべてをありのままに受容します。意見の違いには和顔愛語で接します。だから、そこには実態としての差別や争いはありません。
2023.03,04
コメントを残す