嫌われるということ


嫌われるということ

今年から、市内の禅寺で月二回ずつの座禅と写経に励んでいる。

寺には僧侶が三人、住職の他に、前住職とそのご子息が努めている。

ご子息は善い方なのだが、

父親は、どうも、、、

寺に通っては、話題提供の意味を含めて

道元について語り、禅宗にまつわる疑問をたびたび投げかけていたのだが、

衒っているように映るのか、 それがどうも癇に障っているらしい。

あるとき、仏教は(知識ではなく)行(ぎょう)だと、 言わずもがなを説法された。

それらは両輪の関係にあると思うのだが。

寺では茶話会などで茶と菓子が提供される

前住職のご子弟は畑作をしていて、その他、時おり収穫物が振舞われる。

前住職と言えば、

成行き上、私が手にした野菜を、

女性に渡して下さい、と言う。

年末には餅つきをすると話題にしながら、

呼ばれているのは女性たちのみであるということを、

そのなかの一人から聞き及んだ。

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仏教は慈悲、和顔愛語(穏やかな顔で人に温かい言葉をかけること)と言う。

真に行を積んでいるなら、感情を超える智慧を備えていると思うのだが、

僧職にあって、このような人もいるのかと、

思わずにはいられなかった。

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こんなこともあった、、、

以前、趣味人、とある呑み会のコミュで女性主催者からイベント二次会の設定を依頼され、

経過をアップしながら、 ようやく見つけた候補を挙げたら、

若い男から唐突にダメ出しを受けた。

場当たり的な物言いだったので、  

人の努力も知らないで、と、業腹になり、

感情を抑えるのに難儀した。

仕方なく当日になって会場近くに適当な店を探してイベントに参加したが、

常連メンバーが代案を決めてしまっていて、

私の思惑は無駄になった。

主催者は不快に思ったようで、

後日、他の機会で、

彼女は私の眼前で、

私を除いた他の参加者全員に飴を配り始めた。

女性はそのように嫌悪と怒りを表現するのだと、

一つの貴重な学びとなった。

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もし誰にでも好かれるという人があるとするなら、

それはドストエフスキーが『白痴』で描いたムイシュキン公爵のような 天性無垢の人、 あるいは、まったくの無欲の人ではないか。

生きているものは、凡て、コナートゥス(自己保存の欲求)をもつので、

生き続けるために、何某かの諍いをする。

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以前、私はとくに自己主張の強かった人間だった。

納得がゆかなければ、人の意見に素直に従うということのできない性格だった。

仕事にあっては、相手がたとえ上司であろうと、退職するまで意地を通し続けた。

そんな私を、細君は、「民間(企業)だったら勤まらない」とさえ評した。

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人によるのだろうが、

確執、軋轢といったようなものは若い世代にありがちな病のようなものではないかと思う。

ストレスは、できれば避けたいものだ。

しかし、歳を取るということは素敵なことで、

いつの頃からか、 受け流すという気質というか、

智慧といったようなものが 備わるようになった。

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すれ違いが生じたとき、

そういう人なのだ、

と思えば、腹に溜まることもない。

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今は、どうだろう、 謝るべきは謝るが、

自分らしくあって、 それで嫌われるなら、構わない、

と、思う。

人の感情におもねって生きるのは、 つまらないし、 御免でもある。

そう、思うようになった。

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僧侶はあるとき、

ある程度の、×〇欲、性欲、〇×欲、、、

そんなことを語った。

ストレスが話題になっていたのだろうか、

いくつかの例を挙げていた。

親鸞聖人なら囁いたかもしれない秘言、

道元禅師なら絶対に口にしないであろう禁言、

そんな文言が古希も超えたであろう僧侶の口から零れたことに少し驚かされ、

また心中、失笑もしてしまったが、

僧侶もまた人間、 それで、いいではないか、 と、思えた。

                             2022,12,31


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