趣味人というSNSで掌に載せているコミュは一般的なものではなくて、特異な趣味に依っている。呼吸はし続けていたいとは思うものの、元々がマイノリティー。参加者は希少で、なにより私一人が語っているようではあり、時折「放擲」という二文字が頭をよぎる。
そんななか、最近、クラシックコミュのイベントでの参加者がちらほら、素直に喜んでいる。どの程度のクラシックファンなのか分からないので、企画では、目下、無料、もしくは廉価のコンサートと限っているのだが、アマオケでも聴きごたえのある演奏に出会えたときは、終日、心が弾む。菅の音程が時に外れることのあるのは残念だが、弦は、幼少時からの修練の賜物か、おおむね安心して聴いていられる。
若い人が集うオケの演奏は例外なく溌剌として爽やかだ。しかし、素人ながらに個人的な感想を語らせていただくなら、弱音の部分をもう少し丁寧に奏でていただけないものかとは願う。
ジョン・ケージ4分33秒は、何を有とするか、選ばないという意味で失敗ではないかと思うが、クラシック音楽を聴くとき、私は、無音の響きに耳を澄ます。音は静寂を背景に奏でられる。有は無を肥しとするが、逆に、無は有の響きとなって残余する。無に等しい弱音にこそ、その一音にこそシンフォニー全体を表現する曲調を込めてほしい。力の入った演奏と、力強い演奏とは異なると思う。
老齢な指揮者は一つひとつの音を珠玉のごとく大切に扱っているのではないかと想像する。
それにしても語らいは愉しい。
人の本性(ほんせい)の一つは言葉である。アリストテレスは人間を社会的動物と定義したが、語らいはその本性を発露させる。
あまつさえ、共有する趣味世界での出会いと語らいは、某思想家の語る如くdas Gerede(空話)ではなく、特別で、会話は研ぎ澄まされる。
コミュは、今しばらくは、がんばろうかと思う。
放擲と放下(Gelassenheit、為されるがままに安寧、の意)、紙一重だなぁ。。。
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