生き生きした現在における原初的事象とその捉えがたさについて
Über die anfängliche Sache in der Gegenwart und die Schwielichkeit des Erfassen
佐 藤 幸 三
序
対象は意識においてそれとして把握される。意識されたものがたんに想像されたものではなく現実的であることを保証するのは、その対象がここで、今、生き生きとして眼前に有るということによってである。そのことをフッサールは「今-存在は唯一現実的である」[i]と述べている。今という時制との関係で言えば、過去の現実的な出来事はただ意識のうちに記憶として留められ、未来に起こりうることは不確かなままに予期されるのみである。
ところで、時間は間断なく流れているので、今を捉えたと思ったときには、その今はすでに過去に沈殿してしまっている。いったい、対象は「今」の下で把握することが可能であろうか。時間に関する問いは、K.ヘルトが『生き生きした現在』[ii]で主題としたように、フッサール現象学における根本問題の一つであり、それは、反省による知覚内容についての確認作業が知覚とは同時に遂行しえないということに起因する「今」の捉え難さにある。それに対して、フッサールが後期に提唱した受動的志向性passive Intentionalitätに言及しつつ、受動的綜合が働いている間は主客の分離は生じていないとして時間にかかわるアポリアは解消しているとする論調がある[iii]。この小論は現象学における対象把握の試みを「今」に焦点をあてながら吟味しつつ、その問題点を浮き彫りにする。
1、『論理学研究』における直観とその内容について。外的知覚と内的知覚の区別は判明でない。
アドルノ「『論理学研究』以来、この所与性という用語は、そのうちで、感性的直観と意識の直接的事象としてのあらゆる体験の総体の間で揺れ動いている」[iv]
フッサール現象学初期における『論理学研究』[v]では、自我に現れる事象は、「直観の具体的内容」[vi]、「直観された対象」[vii]である。直観とは、知覚や想像によって充実化する作用を意味している[viii]。知覚の対象が自我外にあり、想像の対象となるものが内的であるとすれば、直観は外的事物と同時に内的対象にも向けられていることになる。外的知覚に関しては、「その諸対象は、それらが我々に現出している通りに、真に、現実に実在していると確信する権利を、われわれは最初から所持していない」[ix]と不十全な知覚とされている。だが、それは内的知覚とまったく同じ認識理論的な性格を持つと思われるものとして[x]、排除はされていない。また、「体験された感性的諸内容の実在」[xi]は外的知覚によって影響を受けるものではないということもそれを排除しない根拠となっている。したがって、この期の現象学にとっては外的、内的対象ともに本質的な直観の対象となりうる。
では、外的世界からの刺激によって得られた感覚は、いかにして特定の関心をもつ意識にとっての素材となるのだろうか。感覚的諸内容が内的なものとなる起因をフッサールは「心的psychisch」に置いている。外的に知覚される内容[xii]、自我を刺激する感覚的なものは具体的で偶然の出来事であり、それは自我にとって必然的な所与ではない。それぞれの「私」はさまざまな関心をもち、外的世界からの刺激に対しては或る物には特別の関心を払い、また或る物は受け流し、あるいは気づかずにいるなどさまざまに向き合う。その結果として、或る心的現象は意識の内容になるが、それは自我にとってまだ本質的なものではない。「心的」な所与は曖昧である。それゆえ、「心的」体験は「志向的intentional」なものにまで高められなければならない。自我の作用は、外的知覚とともに実は「意味」にも向けられている。意味が狙われ、直観されたものが意味に基づく《目的達成》、《充実》としての性格を持つとき、その作用は「志向的」と呼ばれる。志向的に体験された内容は意識にとって本来的内容である。
ところで、フッサールは感覚と事物そのものとの混同を戒めているが、現象学を「体験一般についての学」[xiii]としながら、感覚を与えるものに感覚的な素材だけでなく、外的対象も含めていることはこの期の現象学の不徹底さであろう[xiv]。外的世界と内的世界が判明に区別されていないために、作用は「心的」と「志向的」の間を揺れ動きつづけなければならない。『論研』は自我にとって本質的なものが問いとなっていて、まだ時間についての言及はなされていない。本節ではこの時期の現象学では内的世界と外的世界が判明に区別されていないということを確認しておきたい。そのために対象性の確固とした定立は揺らぐ余地を残している。
2、外的世界における「今」と内在的「今」
前節では作用の対象となる感覚素材が外的世界と内的世界、すなわち意識に求められるということを述べた。そして、外的対象は志向的作用によって、意識にとって本質的なものとなることを確認した。意識は直接的には内的知覚にかかわる。外的世界の絶えず変化するというざわめきは『イデーンⅠ』[xv]で現象学的エポケー(判断停止)と呼ばれる方法の導入によって遮断され、それによって純粋な内的世界が確保されることになった。ところで、もし外的世界と内的世界が判明に区別されるなら、両世界はどのような関係に置かれるのだろうか。その問いを時間に焦点をあてて考察してみることにする。
フッサールは『内的時間意識の現象学』[xvi]で「意識の今は対象の今点に対置される」[xvii]と述べている。現在的にある対象がそれ自体で常に変化しつづけているのに対して意識の場合は事情が異なる。今は流れ続けて、常に新たな今と入れ替わっているが、今についての意識はそれ自体いつも意識の今である。つまり、意識は常に今という場所にあることが保証されている。意識にとって特徴的なことは、なによりも外界から遮断された枠のなかで、今が「たち止まる」ということにある。今がたち止まるということは、換言すれば、「注意を向けることの今は注意を向けられたものの今に他ならない」[xviii]という事態であり、主客が一致しているということを意味している。
フッサール現象学で「今」と言うとき、それが意識における「今」を指していることは彼のだいたいの著作に共通して一般的である。たとえば、『受動的綜合の分析』[xix]での「今」は、「ひとつの素材の今と他の素材の今とを同一性の統一へともたらすようなひとつの今」[xx]であり、それはもともと個々にあり、物理的には同時に与えられるはずのない諸現出の同時的綜合的把握を可能にすることを意味している。また、『ベルナウ草稿』では、たち止まる内在的今は、現実的な今、あるいは意識のみにおいて可能な、過ぎ去った、あるいは未来の今が時間意識における点の持続として流れるなかで、諸々の素材が集うもっとも充実した意識の点としての頂点Kantenpunkt [xxi]である。すなわち、その今点は意識が可能にする今点である。『時間講義』では、それぞれの今にあって、そのとき現出している感覚素材だけでなく、想起されたものを含めてその意識の内容とする原印象Urimpressionが結石される今である。内的であるか外的であるかを問わず、今は対象性が最も明瞭に与えられる時である。今は、過去において経験されたものが今知覚されているものとともに現在化される場所であり、それを可能にするのが意識であり、そうした作用を行うのが超越論的自我である。
ここで浮かぶのは、たとえエポケーによって外部からは保護されている内的世界であっても、外的世界で生じている変化という流れから無縁ではあり続けないのではないかという素朴な疑問である[xxii]。
3、意識野における感覚素材としてのヒュレー
アドルノ「ある明証的な所与を《不可思議にも意識が所有している》ということの驚
き、その所与とは、・・・」[xxiii]
意識世界が現実世界から区別されるなら、それが素材とする所与は身体を刺激する感覚とは異なるはずである。いったい「意識の今」を刺激するのは、いかなる素材なのだろうか。また、それは外的対象のように現実性という性質をもつのだろうか。
内的意識にとっての感覚素材はヒュレーと呼ばれる。『現象学的心理学』[xxiv]によれば、ヒュレーは「純粋な感覚与件」[xxv]であり、「すべての意識性格から自由」[xxvi]なものとしてある[xxvii]。それはヒュレーの非志向性という性格を表現している。また、『イデーンⅠ』では、ヒュレーが「志向的諸形成のための可能的素材」[xxviii]を提供すると述べられつつ、非志向的な感覚的ヒュレーと志向的モルフェー(形式)の統一が刮目すべきこととして述べられている[xxix]。では、非志向的な素材がどのようにして志向的作用を働かせる意識にとっての素材となるのだろうか。
ヒュレーは「純粋に主観的領域から取り出された感覚素材の概念」[xxx]であり、統握によって生成したものであり、その意味では客観的存在ではなく「主観的所与」[xxxi]である。志向的な体験が行われるとき、「意味付与による統一」[xxxii]が起こる。すなわち、外的知覚によって得られた情報のなかで意味という篩にかけられたものがヒュレー的所与となり、篩い落とされたもの[xxxiii]が感性となるのである[xxxiv]。フッサールは外的世界にある空間事物的なものはヒュレー的視覚的所与をフィルターとして見ることが可能になる[xxxv]という。その場合、ヒュレーと空間事物の関係は、「主観的に形成されたsubjektiv gestaltet」色と「射映するabschattend」色の関係にある[xxxvi]。
ヒュレーを感覚素材とすることについての批判的論考は少ないが、希少な例外となるのがフランクフルト学派のアドルノである。アドルノは、ヒュレーはそれが存在するために自分自身と類似するものを求めることが余儀なくされていて、そのためにあらゆる感性から純化されざるをえず、そのため、そのようなものには感性的なものは与えられないと批判している[xxxvii] 。ヒュレーに関しては、一度把握され主観化されたものがどうして非主観的と性格づけられえるのかが問いになると思われるが、もとより非主観的なものと主観的なものの間には越えがたい溝があるのであり、もし前者を自我に服させるとするなら、アドルノによれば、未知の事象に絶えず暴力をふるわなければならないということになる[xxxviii]。ヒュレーが自我の内で形成されたものであるなら、それは実的な感覚素材ではあっても現実性は失われているはずである。
4、外的知覚に即して、改めて「今」を問う
これまでフッサール現象学が内的意識を主な場所として、対象の統一的把握のための方法論を展開する哲学であることをみてきた。しかし、初期の『論研』では、外的知覚は内的知覚と同様の認識理論的な性格を持つものとして排除はされていなかったし、前々節ではエポケーも外的世界からの刺激から無縁ではないことを述べた。また、ヒュレーを感覚素材として統一的把握の理論を展開した『受動的綜合』にも、「この世界はわれわれには根源的に外的知覚を通して与えられている」[xxxix]という記述があることを考慮するなら、外的知覚はそのまま捨象して等閑に附すことのできるはずのものではないはずである。外的対象は意識に所持されることによってのみ原本的originaliterであるとはされるものの、外的知覚は本来的に客観的存在に触れる体験である[xl]。ここで、外的知覚に即して改めて「今」を問い直し、そうした視点から感覚素材についても再考してみたい。
外的知覚には、身体移動とともに生起するとされるキネステーゼ的感覚論で示されるように客観的時間における継続的経過がある。現象学では意識がそれ自体で「今」を所有していることは前述したが、外的知覚も客観的存在をもつとするなら「今」は二つの世界で存在し、妥当していることになる。しかも、二つの今は決して一致することがない。その理由は、
1、外的今が間断なく流れているのに対して、内的今がたち止まるというように性格を異にしている。
2、知覚はたとえ外に向いていてもその本質は「~についての意識」であり、そのことによって内的世界ともかかわっている。内的世界において知覚された対象は生き生きした現在のものとして意識されるが、外的から内的に至る過程には生理学的にも時間を必要とするはずであり、外的に知覚することと内的に意識することが同時ということにはならないはずである。
両世界を結びつけるものとして、内的な要因としての「心的」作用があることは前述したが、実は、それ以外でも自我の客観的世界との直接的な交渉において紐帯となるものを見出すことができる。それが「知覚」である。知覚は外に向けられることによって新たな現出を自我にもたらす。だが、その段階ではまだ空虚であり、フッサールによれば、それは外的客観についての意識であることによって、さらに内的にも働き、その結果「外的現出は内的客観として特徴づけられうる」[xli]ということになる。客観であるということは外的対象からの新たな現出が内的に原本的に所有されるということを示しているが、そうした働きをするのもフッサールによれば知覚である。知覚は、個々の外的対象に向けられ知覚している間は知覚内容をもつが、その他にも、さまざまな作用性格の連続を統合しながら、意識世界で今を構成するという機能をもっている[xlii]。つまるところ、知覚とは「客観を根源的に構成する作用」[xliii]であり、その作用にはたった今過ぎ去ったという性格における記憶と過去も含まれている[xliv]。その意味で知覚は原印象の形成にも寄与しているはずである。
ここで提起される問いは二つある。
1,もし対象を統一的に構成する働きが知覚にあるとするなら、おそらくはその知覚内容でもある知覚作用それ自体を「今」の下で把握する働きはどこにあるのか。あるいは、統一が構成された後で再び他の感覚素材とともにそれらに統一をもたらすのは誰なのか。
2, 内在的今における対象的統一はヒュレー的統一であったが、構成する働きである知覚が外的世界にも向けられているとすれば、知覚に与えられる感覚素材は意識にとっての素材であるヒュレーでは満たしえないのではないか。
1, については後述することにして、ここでは後者の問いについて考察してみる。外的であり、内的知覚の素材ともなる可能性をもつ感覚素材をフッサール現象学のなかから探すとすれば、原感覚Urempfindungがそれにあたるのではないか。『時間講義』では原感覚は感覚とは異なった意味で使用されている。感覚は、それが構成されることによって時間を構成する意識までも構成するものであるとされ、意識と密接に関連づけられている[xlv]。それに対して、原感覚もなにがしか抽象化されたものであり、その意味では意識の俎上に載るものではあるものの、それは、たとえば持続的なメロディーを構成する音という点をそれ自体で現在的なものとして表現している。自我が現実的対象を知覚するとき、対象は裏側など見えない部分を含んでいるために全体がまとめて知覚されることはなく、個別的な相としてしか自我に与えられないということを考えるなら、その点に関して原感覚はキネステーゼ的感覚や原感性[xlvi]と同質の性格を持ち、ともに対象構成にとっては原初的な層を成しており、その点で現実的な要素を含んでいると言えるのではないか。もし反省することによって対象が意識的存在になるということを前提とするなら、現実はそれがまだ反省作用の対象となっていない、すなわち意識される端緒において自我に与えられる。知覚が「始まり」であり、しかもすでにそこにはすでに過去把持が住み込んでいる[xlvii]のと同様に、原感覚は意識継続性のうちにある一つの相として、現実的な「今」を性格づける「まだない」と「もはやない」の狭間にあり、二つの継続することの限界点として常に新しい投入点Einsatzpunktを構成するものであるとされている[xlviii]。原感覚は外的知覚と密接に連関していると言える。『受動的綜合』では感覚素材としてもっぱら「ヒュレー」が扱われるものの、それ以外にも現象学の歴史のなかで変化する哲学の性格に応じて感性、原感覚などさまざまな概念が感覚素材として意味づけされており、そこに内的と外的のどちらかに徹底できないフッサール現象学の複雑な在り様を読み取ることができる。
5、知覚「作用」そのものの把握について
これまで見てきたように、今という時制の下で働いているのは知覚であり、それは外的世界と内的世界に同時に向かいつつ、両世界からの感覚素材によって現在を構成している。
ここで、前節の1、の問いについて考察してみたい。知覚がひとつの作用であり、フッサールの「自発的なすべての作用[xlix]とともになにがしか新しいものが現れる。各作用は、いわば、その流れの各瞬間に原感覚として機能し、・・・」[l]という言や、同様に、「作用において<私は>知覚に現出するものすべてを今見出すのであり、そして、それらはすべて《現在的》である」[li]という言が真理であり、自我がなにがしか異他的なものと出会うとき、それと同時に発生するのが作用であるということを認めるなら、それを現実的なものとして生き生きと捉えるということは、作用をそれが働いていると同時に把握するということと同義である。作用はそのつどの今にあって主客の間で現実的に働いている。そのことが実は外と内の間の齟齬をもたらしていると言える。「作用は今である」ということは、知覚されたものについてはエポケーによる括弧入れが可能であっても、作用そのものは停止できないということも一つの証左である。こうした事態は、『現象学的心理学』で「括弧に入れられるのは、ただ、《私、この人間》、そして《世界のうちにある私の心》という態度で私が行って、妥当にもたらしたもののみであり、体験としてのこの定立や作用ではない」[lii]と、フッサール自身によって述べられている。作用は意識的には制御できない衝動である。問題は、知覚作用において作用が担っている内容を現在という時制の下で把握しようとするなら、時間的には後からしか把握できず、結局それが把握されたときには生き生きさを失ってしまっているということである。知覚作用が働いている間にそれと同時に作用を捉えることは不可能だろうか。最後にその点について言及する[liii]。
6、自我のない受動性ichlose Passivität,の段階で生じている衝動的志向性と„ichlos“の性格について
一般的には、作用は「反省」によって後から捉えられる。だが、そうして把握された感覚内容は過去の対象を表現していて既に現在のものではない。このアポリアは反省という能動的作用が生じる以前の対象把握への試みによって、すなわち、方法的には作用を働かせ、それによって感覚内容を確認する自我の否定によって乗り越えられるように思われる。フッサールは『ベルナウ草稿』[liv]で、ヒュレーが自我を刺激しているときは感性的衝動が働いていて、そのときはヒュレー相互の連合と再生産が生じている《自我のないichlos》、感性的傾向の段階にあると述べているが[lv]、「自我のない」という概念の導入は現象学的哲学に時間意識が取り入れられたあとで、エポケーが演じた役割と同様に、時間の影響を受けない反省以前の状態を創出する試みであったと言えるだろう。山口はフッサールが、生得的な諸本能は受動的な、自我を欠く、原地盤を構成する時間化の流れの中で覚醒してくる諸本能であると述べていることを引用しつつ、超越論的自我は時間意識が芽生える以前の自我であると性格づけている[lvi]。そして、「自我極が形成される以前の幼児期に衝動的志向性による受動的綜合がそのままのあり方で働いていますので、当然自我極と対象極を前提にする主客の分離は生じていません」[lvii]と、衝動的志向性が主客未分の領域で働いていることを強調している。では、衝動的志向性とはどのような志向性なのであろうか。『相互主観性の現象学』[lviii]では、まだ自我のない受動性ichlose Passivität,の段階で、すべての原初の現在をとどまる時間化として統一的に形成し、具体的に現在から現在へと、すべての内容が衝動充実であり、その目的が定まる以前に志向されるというような仕方で押し進めるような志向性が前提されるとされ、それが衝動的志向性として提起されている [lix]。こうした志向性の存在は「前提してはならないか、あるいはすべきではないかdürfen oder müssen…」という前提の下で述べられてはいるものの、フッサールは自我の能動的な働きが生じる以前の作用の働きとその把握を構想していたことは間違いない。それによれば、対象把握を意図した能動的作用が生じる以前に感覚素材から自我への触発が先行していて、それに気づくことによって自我は初めて対象的なものに対向する。
フッサールが《自我のないichlos》感性的傾向の段階でそのつどの今における反省以前の対象把握を企図していたことは想像できる。しかし、そのことをもって、„ichlos“に込められたフッサールの意図が仏教思想を髣髴とさせる「主客未分」における無我のようなものであると考えることはできないだろう。その理由は、
1、『受動的綜合』では、自我が触発に気づかず、まだ能動的作用も働かせていない状態を無意識であるとした[lx]。受動的志向性が働いているとき、自我はたとえ能動的には活動していなくても極として機能しているのであり、自我の存在まで否定したものとは言えない。„ichlos“の„ich“とは能動的な自我を指示していると考えられる。
2,ヒュレーの触発を受ける自我の性格がたとえ無自我であったとしても、第三節で述べたように、ヒュレーは自我による把握を通して成立したものであるので、無自我の場所もやはり主観的なものによって彩られていることになるのではないか。
衝動的志向性は能動的自我が関与する以前の感性的領域で働いている。現象学における無意識とはこの感性的領域のことであり、そこで想定されているのは、そのつどの今におけるヒュレーからの触発と、衝動としてのヒュレーの統一である[lxi]。衝動的志向性の運動は、たとえ無意識的な活動であっても主客の分離を前提とする運動である。自我の存在が否定されない限り、対象と自我の間の刺激と対向という関係が消滅するはずもなく、また、主客分離の枠組みのうちにある限り、主客がたとえ刹那的にでも統一されることがあっても、それは時間による侵食を免れえず、差異化と統一という運動を際限なく繰り返さざるをえない。
主客が分離している限りにおいて「作用」が消滅するはずもなく、また、その限りにおいて作用は自我の客体であり、対象でありつづける。作用は最も原初的なものとして「今」を占有している。
まとめ
対象が自我に現出しているさ中に、それと同時的に把握する困難をK.ヘルトは『生き生きした現在』で「自我は自己現在化において原印象的に自らに《触れている》。が、にかかわらず、他の対象と同じようには自らを把握することはできない」[lxii]と主題化した。すなわち、「反省する自我」が「反省される自我」にたどり着こうとするまさにその時に、時間の流れによる乖離を受け、後者は前者から逃れ去っていく。ヘルトは「他の対象と同じようには」と但し書きをつけて自我と対象の場合は事情が異なることを述べているが、事態の本質が今を占めている「作用そのもの」の把握にあることをかんがみるなら、客体が反省される自我であるか、事物であるかは問わないはずである。感覚内容を担う作用を把握しようとする今のそのとき、作用は反省の対象である客体となり同時には把握できないものになる。作用によって把握された感覚内容はたち止まる今において反省の対象とすることができても、作用そのものはいつも現在進行形であり続けるために、それが生じると同時に対象化することはできない。そうした時間にかかわる哲学上の困難を、フッサールはその前期にはエポケーと超越論的自我の理論の創出により、すなわち現出者を現出から排除し[lxiii]、それによって内と外という二元論を克服することによって、後期では受動的綜合の理論によって、すなわち感覚素材と自我という二元論をその対立が生じる以前の領域へ踏み込むことによって克服しようとした。両者は自然的態度にある自我の否定という点で共通している。しかし、前期現象学はたとえエポケーによってたち止まる今を確保しても、それが客観的時間から浸食を受けているという状況は克服できない。後者の発生的現象学にあっては、受動的志向性の発見によって無自我的、先自我的な領域に遡及したものの、ヒュレーが客観的な感覚素材なのかという問いは残ったままであり、今という場所に客観的な感覚素材を映すという点で疑問が残る。
アドルノは「志向性の優位は、・・・哲学の現実的なものへの関係を破壊し、・・・あらゆることから拘束を受けない現象学を許すのである」[lxiv]と述べて、志向性に基づく現象学的考察が現実から遊離していることを指摘している。志向性とは主客の間に成立する作用であるが、主客分離の前提に立つ限り対象は自我にとって現実のものとはならない。すなわち、対象をありのままに把握するためには主客のいずれかを否定しなければならない。フッサールの「自我のないichlos」も、その一つの可能性として理解することはできるが、どうもうまくいっているようには思われない。
註
[i] Die bernauer Manuskripte über das Zeitbewusstsein,Edmund Husserl Gesammelte Werke(Husserliana)Bd.ⅩⅩⅩⅢ,Seite41からの引用。なお、これ以後、同書を本小論では『ベルナウ草稿』と表記する。また、Husserlianaからの引用は巻数と頁数のみ記す。
[ii] Klaus Held,Lebendige Gegenwart,Martinus Nijhoff,Den Haag,1966
[iii]山口一郎『文化を生きる身体』知泉書院、東京、2004年、356頁
[iv] Theodor Adorno ,Zur Metakritik der Erkenntnistheorie, Suhrkamp,Frankfurt a.M.,1990,S.135
[v] 原典はLogische Untersuchungenで、Husserliana Bd.ⅩⅨにあたる。『論理学研究』は以下、『論研』と記す。
[vi]ⅩⅨ,763
[vii] ibid.
[viii] vgl.ⅩⅨ/2,671
[ix] ⅩⅨ,754
[x] vgl..ⅩⅨ,760
[xi] ⅩⅨ,767
[xii] vgl.ⅩⅨ,759
[xiii] ⅩⅨ,765
[xiv]『論研』における第一次的内容としての感覚素材は、「すべての反省内容が直接的もしくは間接的に基礎づけられている諸内容」(ⅩⅨ/2,708)は外的感性に基づきつつ、外と内という区別を超えた、現象学的な体験内容であるとされる。
[xv]原典はIdeen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie で、Husserliana,Bd.Ⅲに当たる。同書は、以後『イデーンⅠ』と表記する。
[xvi]原典はZur Phänomenologie des inneren Zeitbewußtseins, Husserliana,Bd,Ⅹで、邦訳題は『内的時間意識の時間意識』。同書は以後『時間講義』と表記する。
[xvii] Ⅹ.321
[xviii] ibid.
[xix]原典はAnalysen zur passive Synthesis,Bd.ⅩⅠで、邦訳題は『受動的綜合の分析』。同書は以後『受動的綜合』と表記する。
[xx] ⅩⅠ,127
[xxi] ⅩⅩⅩⅤ,259
[xxii]そもそも認識の主体である自我がつねに時間による浸食を受けているのであり、それは自我を世界に対するものとして、あるいは世界の中に在る客観として捉えても免れないように筆者には思われる。
[xxiii] Theodor Adorno ,a.a.O.,S.141
[xxiv]原典はPhänomenologische Psyvhologie,Husserliana,Bd.Ⅸで、邦訳題は『現象学的心理学』。以後『心理学』と表記する。
[xxv] Ⅸ,163
[xxvi] Vgl.Ⅸ,166
[xxvii]主観的所与、主観的性格、なにがしかについての意識の性格、純粋に主観的に与えられた核内容としてそれを越えて意識様式のための質料、意識性格の本質内容には何も含まれていないもの…をヒュレー的所与という。ヒュレー的所与は純粋に主観的に考察され、身体器官、心的物理的なものなしに考察される(Ⅸ,166)
[xxviii] Ⅲ,1,199 ,P.101
[xxix] Vgl.,Ⅲ,§85
[xxx] Ⅸ,167
[xxxi] Ⅸ,163
[xxxii] Ⅲ,193
[xxxiii] それをフッサールは「現象学的残余Residuum」と表現している。Vgl.,Ⅲ,193
[xxxiv] フッサールにとって根源的経験とは内在的ヒュレー的経験である。vgl.,ⅩⅠ,184
[xxxv] vgl. Ⅸ,163
[xxxvi] vgl. Ⅸ,162
[xxxvii]vgl.Theodor Adorno ,a.a,O. S.149
[xxxviii]vgl.ibid.S.20
[xxxix]ⅩⅠ,106f.
[xl]vgl.ⅩⅠ,210
[xli] Ⅹ,95
[xlii] Vgl.Ⅹ,40
[xliii] Ⅹ,41,vgl.,Ⅹ,119
[xliv] vgl.Ⅹ,41
[xlv] vgl.Ⅹ,326
[xlvi] 原感性とは、『イデーンⅡ』(HusserlianaⅣ,Ideen zu einer reinen Phänomenologie und phänomenologischen Philosophie Ⅱ)で語られたる感覚素材の一つ。附録でフッサールは感覚を「原感性Ursinnlichkeit」と「二次的感性sekundäre Sinnlichkeit」に分けて[xlvi]、前者を「理性の沈殿物をまったく含まない」[xlvi]もので、たとえば視覚的な感覚野における色与件であり、統覚の後でその契機として見出されるとした。したがって、原感性は内的根拠から見出されるものではなく、純粋に外的知覚によって見出されるものと考えられるのではないか[xlvi]。それに対して、後者は、能動的に捉えられたものが受動的に自我を刺激するものへと沈殿した[xlvi]結果として新たに生じたもので、「理性的生産物から生じる二次的感性」[xlvi]である。二次的感性には「連合Assoziation、再生産(想起、融合、想像)」が属している[xlvi]。意識が最初に刺激として受け取るものはこの二次的感性である。二次的感性があらかじめ理性的に捉えられている感性であるとするなら、ヒュレーと同性質のものと考えられる。
[xlvii] vgl.Ⅹ,342f.
[xlviii] vgl.Ⅳ,372
[xlix] 『時間講義』のこの箇所では主に判断作用について述べられているが、自我の自発的な働きとしての作用には、知覚作用、把握作用など、対象構成にかかわるすべての作用が含まれていると考えられる。
[l]Ⅹ,132
[li]Ⅹ,195
[lii] Ⅸ,275,Ingeltungshabenは妥当させて所持するというような意味であろうか。ここでは邦訳本、田原八郎『ブリタニカ草稿』せりか書房、東京、1980年、73頁にしたがって「作用」と訳す
[liii] 山口は『時間講義』でフッサールが「すべての内容がそれに向けられた統握作用によってのみ意識されるなら、この統握作用そのものが一つの内容である限り、この統握作用が意識される意識についての問いが生じ、無限遡及が避けられない。しかし、すべての〈内容〉がそれ自身において、しかも必然的に〈原意識〉されているなら、さらに(内容を)与える意識への問いは無意味になる」(Ⅹ,119)と述べていたことを取り上げ、原意識を原初的なものとしている(山口一郎『存在から生成へ』知泉書院、東京、2005年、67頁以降参照)。しかし、本節で引用したように、フッサールは、他方で、作用が現出を担っていることを自覚しているのであり、またそれを捉える方途として「把捉的な視Erhaschen」を企図している。把捉的な視というのは、生き生きと流れる意識のなかで、自我が対象の一部である相Phaseを把握しつつ、同時に反省によって統一形成を行うというものであり、いわば先反省的な把握への試みがそこには含まれている(vgl.Ⅹ,.355ff.,ⅩⅤ,584f.)。さらには、フッサールの問いは『時間講義』以後さらに深まっていく。たとえば、次節で論じる衝動的志向性は今という時制の下で生起する作用への意識を欠いてはありえない志向性であるし、この小論で論じる余地はないが、自我についての論究も、時間的に先んじるものとしての先自我や作用のさらなる原泉としての原自我へとさらに進捗していくことを考えれば、フッサール自身『時間講義』での論述に満足していたとは考えられないのである。また、筆者自身は自我の外的世界との関係が捨象できない以上、感覚素材をいかに性格づけるかという問いが残り、したがって原意識をもって原初的なものとすることについて疑問をもたざるをえないでいる。
[liv] Die bernauer Manuskripte über das ZeitbewusstseinはHusserliana Bd.ⅩⅩⅩⅢに当たる。以後『ベルナウ草稿』と表記する。『ベルナウ草稿』は『綜合』(1918-26)以前の1917/18年に執筆され、感覚素材については『綜合』ではもっぱら「ヒュレー」が使用されたのに対して、原感覚、ヒュレーの両方の用語が使用されている。そして、感覚すること、統一的把握、ヒュレー的なもの、ノエシス的なものが意識されないプロセスの持続であるとされている(vgl.S.201)。
[lv] vgl.ⅩⅩⅩⅢ,276
[lvi] 『存在から生成へ』426頁
[lvii] 山口一郎『文化を生きる身体』知泉書院、東京、2004年、356頁
[lviii] 原典は、Zur Phänomenologie der Intersubjektivität,Husserliana Bd.ⅩⅤ
[lix]vgl.ⅩⅤ,595
[lx] ⅩⅠ,167、また『ベルナウ草稿』には原感覚、ヒュレー的なものはともに「無意識の過程の持続」(Vgl.S.201)
であるという記述がある。
[lxi]対象的なものは先所与的なヒュレーであり、それはまだ自我が活動していない先-自我的vor-ichlichな領域で互いに同質性、類似性などを通して融合し、あるいは排除しあうなど、自ら生成連合し、生きた現在の各瞬間にヒュレー的統一として成立しながら自我を触発している、とされる。
[lxii] ibid.S.94
[lxiii] 「感覚された色はなにがしかへの関係をもたない」Ⅹ,89。同様の記述が、Wahrnehmung und Aufmerksamkeit,1893-1912,Bd. ⅩⅩⅩⅧ』から、「感覚内容の下で、諸事物そのものの諸要素ではなく、《現出する》諸事物の諸要素が理解されなければならないであろうということを疑う心理学者はいない」(ⅩⅩⅩⅧ,129)、「知覚された事物は事物そのものではない」(ibid.)という記述で見受けられる。
[lxiv] Adorno,a.a.O.S.156
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