受戒会修行に参加して(仏教は「死」をどう考えるか4)


受戒会修行に参加して(仏教は「死」をどう考えるか4)

仏教は生(き方)、また、死について考察する。

言うまでもなく仏教は宗教であり、科学とは相容れない領域をもつ。如来、菩薩と呼ばれている存在は人間には及ぶはずもない能力を持つとされ、そうした側面は信仰の領域に属するが、

私は、そうした側面よりも、悉有仏性という思想の下に、人間が本来有しているとされる仏性についての教義に着目している。仏教は哲学でもある。たとえば、色即是空と唱え、実体、永遠に存続するものなど無いとするが、そもそも実体、物それ自体と言われるものは未知の存在であり、あるいは非存在であり、人間に与えられるのはせいぜい感覚されるところの現象のみであることを考えれば、仏教は本質についての学であるとも言える。

科学は1+1=2をベースとする。つまり、関係性を問う学であり、それ以前の、単体として成立しているもの、たとえば、生、死を(そのメカニズム、仕組みではなく)それ自体として問うことはない。理解するということが理論という筋道の果てにあるとするなら、生、死をそれとして理解することは難問となる。したがって、それらについては、個人的、もしくは宗教的な(場合によっては独善的な)理解になりかねない。

哲学は理論に基づき思索を重ねるが特定の根拠を持たない。思索と必然的な関係にある言葉を道具として使用するが、学説は多様で、その真理性は、結局は支持を得るか否かに依るところが大きい。生、生き方についての問いはそもそも不可思議であり、意味づけも人それぞれ異なるものとならざるをえない。

しかし、そうは言っても、死は生を限定するものとして現実である。それを改めて問うか否かも人それぞれだが、釈迦は生死にかかわる問いを人間の基本的問いとして浮き彫りにした。死が意識されるとき、人は生を真摯に問い始める。

この四月、鶴見総持寺で一週間の受戒会修行に参じた。 坐禅と作務を主とするかと思いきや、読経と拝礼が繰り返され、その合間に「説教」が組み込まれていて、その幾つかは印象に残った。

一つには、祖母からの伝言があったにもかかわらず、遊びに出かける妹を呼び止めなかったために飲酒運転に巻き込まれて事故死したという話。もしそこにタイムラグを挟んでいれば、という僧侶の悔恨は深い。加害者を眼前にして、生涯にわたり笑顔のないようにと願いつつ、憎悪と憎悪することへの自戒との間で揺れ動いたという。慈悲によって人に安寧を与えるべき僧侶が憎という感情に支配される苦しみはいかばかりかと想像する。

また、一つには、癌を宣告され、今生の見納めと桜の木を泣きながらに抱きしめたという話。年金の書類を書きながら、車にあと何回乗れるだろうかと自問しつつ「時は命なり」を教訓としたという。『行人』(夏目漱石)のなかで、一本の木を抱きしめながら、「これは私のものだ」と語る場面がある。救いがたいほどの不安のなかで人は何か確かなものに縋りつかなくては生きてゆけない。修行のなかにこそ安心は見出されるべきなのではあろうが、生の不条理を受け入れるには相当な覚悟が要ると思われる。

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生における最大の一大事は死である。

二十八の齢で坐禅を始めたとき、死は生の彼岸にあるのではなく生とともにあると感得したが、その思念は未だに変わっていない。死を想うとき、それと同時に生が問いとなる。もし人が千年万年と生きられたら、死は彼岸の出来事ともなり、人は怠惰な存在となるだろう。

生きるとは何なのか、

問い続けた結論は、自らが耕す畑における歴史の受容と新たな創造だった。人は現前として歴史において存在している。どんな分野であれ、どんな些事であれ、歴史という地盤に立つ限りにおいて、人の営みは凡て歴史との交渉において成り立っている。

光陰の速さは語られている以上に感じられる。それだけに時間に流されず、如何に自己を保つのか、自らを失うことなく日々を大切にして生きてゆきたい。幸いにして、私は、それなりに充実した人生を過ごせているようではあり運命には感謝している。臥薪嘗胆、これまで自分でもよく努力してきたと思う。ただ、何事においても自分を優先してきた嫌いはあり、ときに自省の念が湧いてしまうのだが。

※仏性とは、生老病死という苦に煩わされることなく、また、慈悲、大悲によって他者の苦しみをも救う心のこと(抜苦)。

                                2024,04,23


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