「生きる」ということ(親鸞と道元)
親鸞聖人は仏教が禁じる不邪淫の遵守に苦しみ、法然上人を訪ねたと聞きます。彼は人間が本性(ほんせい)としてもつ欲と真摯に向き合いました。それに対して、道元は「只管に打睡して恁麼を為すに堪えんや(寝てばかりいてどうするのか)」という言葉に象徴されるように、自覚を重んじ、修証一如(日々の生活が悟りに他ならない)による生活を唱導します。人間が間断なく死へと向かう存在であることを思うとき、道元の凛々しさ、強さはいつも頭の中にあって私を鞭打ちます。人間は実存的存在であり、短い人生をだらだらと生きているわけにはゆきません。親鸞、道元ともに選択した生き方は「生きる」ということに真摯に向き合った結果の信念に基づいていますが、私のような凡夫では厳しさに徹するといってもなかなか難しいところがあります。自分の弱い部分に眼が行ってしまうのも現実で、人間だと思います。
親鸞は「悪性やめがたし こころは蛇蝎のごとくなり」と、自らの弱さを直視する勇気を持ちました。大事なのは、そこから眼を逸らさないことだと思います。
若く、人生の理想を描いているときに道元の生き方には学ぶところがあります。しかし、齢を重ねるごとに自分のなかで「弱さ」の比重が増してゆくのも感じないわけにはゆきません。凛々しさと弱さのなかで、葛藤しながらでも日々思いを新たにしながら生き切る。今は、そのように生きるしかないのかもしれません。
親鸞が語る「悪性」はたとえば詐欺といったような悪行のことではありません。それは人間に本来的に備わっている弱さのことで、キリスト教世界でもアウグスティヌスによって原罪と表現されているところのものです。人間は限界を負った存在で、自ら持つ理想像の下で儘ならない自分に気づきその乖離に苦患するものです。問題の本来の所在は決して完全ではない「人間」にあります。限界を乗り越えることを諦め、悪行を行ってしまう場合、人はおそらく心の闇をかかえるに違いありません。しかし、そのことによって良心までも麻痺してしまっているとしたら残念なことです。
弘前大助教授夫人殺害事件は冤罪事件でした。真犯人が名乗り出たとき、人に罪をかぶせたまま死んではゆけないと語ったそうです。人間は自らの品性が堕ちてゆくことに最期まで耐えられるものではないと、そう信じたいものです。
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