「今」を捉える(仏教は「死」をどう考えるか,1)


「今」を捉える(仏教は「死」をどう考えるか,1)

「今でしょ!」というフレーズが、かつて一時期、もてはやされた。

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今と言うとき、たとえそれが無意識ながらにでも脳裏に浮かぶのは「死」である。生と死とは最大の矛盾の関係においてあり、不条理である。それがゆえに、常人にとって死は受け入れ難いものとしてある。

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「今」をどう捉えるか、仏教思想から読み解いてみたい。

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目下、Eテレ、『こころの時代』で「歎異抄にであう、無宗教からの扉、不条理を生き抜くために」が放送されている。そのなかで、提題者である阿満氏は、

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「死は壁ではなく、一つの通過点である」というようなことを述べていた。

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それまでの放映から、氏にとって、通過点の向こう側にはいわゆる浄土世界の広がっていることが信念となっていることが窺い知れる。信仰のない者からすれば非科学的である。しかしながら、氏の宗教観がその一言では片づけられない、安易なものではないことは、主張の一つひとつに根拠を与えながら語る口ぶりから理解できた。

科学を含め、いかなる知も理解のための最終根拠とはなり得ない。知の限界に至ったとき、或る者は宗教の門を開く。

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死は生にとって最大の不条理である。この不条理は、では、いったい、どこから生じ来たるのか。

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曹洞宗の開祖である道元は、 「生より死にうつると心うるは、これあやまり也」と正法眼蔵、生死(しょうじ)の巻で説く。生というとき、そこには生より他になく、また、死というとき、死より他にない。だから、それだけに向かって仕えていれば、厭うことなどなくなると言うのである。 道元は雑念を捨てて今を生きよと言っているようで、それは、平生、我々が考えることとまったく異ならない。

しかし、道元は、同時に、そこに初めと終わりがある故をもって「生は不生(ふしょう)である」と、また、同様に「滅はすなわち不滅である」と言う。

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このことは、どう理解したらよいだろうか。

「生死を涅槃と心得れば、そのとき、生死を離れる者となる」と説かれるときの涅槃とはいったい何だろうか。

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仏教は、事実をありのままに受け入れられない執着心から苦が生じると説く。生老病死は事実である。したがって、その一つひとつをそれとして受け入れることが、苦からの解放であり涅槃への道であると解釈できる。

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しかし、私は、道元はさらに深い理解のうちにあったのではないかと想像する。

死は、身体的私にとって「今、ここ」という時空の彼岸にある。すなわち、生と死という互いに相容れない矛盾は「今、ここ」ということを規準にするとき産まれる。また、阿満氏が、死を一つの通過点とするのも、今、ここで生きている「私」を規準とすることから導き出した理念であろう。

しかし、「今」と「ここ」とは整合的関係にありながら、同時に矛盾の起点となりうることにも理解が及ばなければならないと、私は考える。

道元は身心脱落を説くことで、「ここ」からの束縛を説いた。

「ここ」という束縛を解かれるとき、

「ここ」とセットの(小さな)今に気づくとともに、

その今を包括する大きな今に想いが至る。

道元が「有時」の巻で、昨日の今も今日の今であると説く所以である。

「今、ここ」という立脚点を超えるとき、死は決して通過点でも、彼岸でもないという理解が開かれると、私は考える。

生と死とは決して矛盾の関係にあるのではない。

相対性理論は時間の流れが決して一元的ではないと語るが、

道元は既にかかる思想の大枠を語っていた、と言える。

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死を生にとっての不条理と考えるのは、「今、ここ」を基点とする科学的視点から生じる思念である。

しかし、そもそも何をもって理とするか、それが根本的問いである。

                                                  2022,08,26


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