池田小事件20年/死刑制度について
児童8人が犠牲となった池田小事件がニュースになっている。
20年の年月を経てなお報道されるということが事件の重大さを物語っている。
この事件の特異性は死刑制度の意味を幾つか投げかけたように思う。
殺人者は遺族への謝罪どころか、罪の意識さえ持たず ただ死刑になることのみを望んでいたという。
そんな状況での死刑にどのような意味が見出せるのだろうか。
逆に、「死刑は当然だ。早く死の償いをしたい」と改悛の情を持つ死刑囚の死刑に、
懲罰、見せしめ以外の意味はあるのだろうか。
償いの方法は死刑以外にもあるのではないか。
1958年に起きた小松川高校事件で、被害者遺族は極刑を望まなかったという。
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先進諸国の多くが死刑制度を廃止し、
アムネスティが日本の死刑制度を牽制しているなか、
2020年の世論調査では、 国民の8割以上が制度に肯定的な態度を示しているという。
その理由の一つとして被害者遺族の心情が挙げられている。
そうした心情は誰が否定できるものでもない。
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問われるべきは、冤罪である。
弘前事件では死刑確定後、真犯人が、
「人に罪をなすりつけて死ねない」と言って、名乗り出る。
狭山事件、また、すでに絞首刑が執行されてしまった飯塚事件など証拠品とされたものの捏造の可能性がマスコミによって幾度となく取り上げられている。
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この国おける司法制度の大きな問題点は、
検察、警察側の人権意識の希薄さである。
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では、もし万が一にも私の身内が犠牲になってしまったと仮定した場合、
私は何を望むだろうか、
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そんな事態は考えたくもないが、
もし、万万が一にでも、被害者遺族となってしまった場合、
私は、おそらく、加害者に事態の説明を徹底して求め、
向き合う存在者の心に向けて、
心行くまで難詰するのではないかと、
想像する。
加害者の罪は被害者遺族を前にして問われなければならないと思う。
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ところが、加害者が国の管理下に置かれたときから、
事件は被害者遺族からは手の届かぬ場所へと移される。
そして、たとえ死刑が執行されても、
その事実を遺族は後から知らされるのみである。
事件と真底向き合うこともできず、
ただ亡くなった被害者との心の会話のみが残される。
心癒される日が来るのだろうか。
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被害者遺族が幾分かでも癒される時を迎えるためには、
死刑制度がたとえ否定しきれないものであるにしても、
司法機関によって一方的に進められるのではなく、
被害者遺族の意向が尊重されるべきである。
なぜなら、被害者には事件の真相を知る権利があるから
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事件は司法の面子のためにあるのではない、
考慮されるべきは、被害者の人権である
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政治家は「子どもの命を奪う犯罪は断じて許されるものではない。」と言う。
正論ではあろうが、
そんな発言が、水面に浮かぶ泡よりも軽く感じるのは私だけだろうか
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個人的なことだが、
私は、うっかり交通違反をしてしまっても、
指紋押捺はしない。
指紋は名前とともに人権のシンボルであり、
それがどのように利用されているかと、
想像するだけで身震いが起こる。
この国は死刑制度を維持するに値していない
2021,06,09
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