現代美術に就いて
昨日、所属しているバイクサークルのツーリングで長野県上伊那郡にある
中川村美術館という小さな美術館に立ち寄った。
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展示されている絵画のテーマは「アンフォルメル(形式に囚われない)」。
絵画にはまったく関心がなかったが、
学習の途上でメルロー・ポンティの「セザンヌの絵は人間がいる以前の風景」という言葉に触発され、言葉以前の世界を表現しえる可能性として関心をもつようになった。
絵画は宗教画を除けば、写実主義、印象主義が思い浮かぶが、それらについては素人ながらに理解できるのだが、
「非形式」に象徴される現代美術については?マークばかりで、
現代アートのコミュに属して、愛好家たちとも話題にしてきました。
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芸術、哲学、宗教といった分野は1+1=2という約束事を基底とする科学とは異なり(註1)、言葉を含めてあらゆる前提を措定しない。セザンヌは絵画の世界でそれを具現化した(註2)。
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では、現代美術とは何か、
私個人の見解を言えば、
ひとえに内心を表現したもの、
が、結論である。
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簡単かつ素朴な結論で、そんなことかと言われそうではあり、
既に周知されていることなのかもしれないが、
それはこの日、中川村美術館で「本質的孤独」という作品を見たときに、
ようやく辿り着いた一つの結論だった。
だが、しかし、
作者に制作の意図を言葉での説明を待たなければ理解できないというのでは、
前述した芸術の本来性の意図からは逸脱してしまうのではないか。
芸術といっても元は主観的な営みである。
しかし、作品が人に受け入れられるには客観性も担保しなければならないはずである。
主観が客観でもある、とでも言おうか。写実的絵画に、言わば見慣れてしまった反動として印象主義が受け入れられたのは、その両側面を備えていたからではないか。
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仏教は「十牛図」で、自我と世界との対立が溶けて、やがて念が消えてゆく世界を表現している。
現代美術は、今後、見る者にいかなる世界を展開してゆくのか、
そんなことを想いながら中川村美術館を後にした。
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ところで、クラシック音楽の世界でも、宗教音楽から、古典派、ロマン派へと曲調が変遷し、ストラヴィンスキー辺りから規則正しい音調が崩れ始め、ジョン・ケージに至ってし非形式の極みに達している。
形式からの脱却は時代の閉塞感からの解放が目されていると感じるのだが、強烈な主観性が果たして世界に馴染めるのか、疑問である。
意味は主観的だが、同時に客観的でもある。
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(註1)発明家エジソンは1+1=2が理解できず、また、先生に尋ねても答えてもらえなかったために学校を小学一年生で止めてしまったということは有名な話である。初等学校は、将来にわたって世界で生活できるための考え方、ルールを教え込み、その結果、決まった考え方しかできない大人を量産する場所に他ならない。エジソンは幸運にしてその洗礼を浴びなかったので発想力を埋没されることなく、豊かな思考を保ち続けたと考えられる。
(註2)昔、報道特集という番組のなかで贋作家がインタビューを受け、真似できないのはセザンヌだけだと語っていたのは、その際立った特異性を象徴しているようで印象的だった。

ダニエル・ベラスコ作「本質的孤独」
2022,07,20
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