永平寺にて


永平寺にて

若い頃より坐禅に親しんできたのは、

有るということに、

そして、いずれ死ぬということに

真正面から、向き合いたいという衝動に基づいていた

坐禅とは、生、そして、死を運命づけられた

自己と向き合うということである

坐禅は、場所を選ばない

それでも永平寺に拘るのは、

開祖の思いを、

叶うなら、

追体験したいという思いに他ならない

参籠は修行と言うにはほど遠く、

ただ「坐禅」なるものの触りに過ぎなかった

しかし、法話を通して

ひとつ、大きなことを学んだ

坐禅とは「息」である

息のなかに、生死(しょうじ)はある

坐禅が生死を見つめることなら、

すなわち、息が生死である

・・・と、理屈を言ってはならない

言葉を超えて、

息を、ただ感じること

死の先駆的決意性、

西洋の大哲学者はかく語りき

しかし、死は彼岸にあるのではなく、

息のなかにある

多くの宗教は来世を語る

しかし、(私にとって)宗教の本来的意味とは

ただ「今」を感じ、

そこに安寧を附与するもの

今とは、息であり、

そこに生死は住みたまう

世界は関係で成立していて、

つきつめれば、因果は同時にあり、

凡ては一瞬の出来事である

生死という出来事は

そのうちに宿う小さな営みである

永平寺での参籠は貴重な体験となった

今回、福井では他に𠮷峰寺を訪ねた

永平寺を創建するまで

道元は、そこに位置する小さな開山堂で

正法眼蔵の多くを著したという

学道の人は貧なるべし

物に満たされようはずもない空間で

禅師の心は満たされていたに違いない

そう感じた

                  2025,08,22

  • それでも雑念が・・・(笑)

西洋思想家を長い間苦しめてきた難問、

有,実体、物それ自体,Es、等々

それは、

因と果とがまったき重なりとなるとき、

すなわち、現象が止まるとき、

現れるのかもしれない、

しかし、それは不思量である


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