メタファーの運動/Die Bewegung der Metapher


/メタファーの運動

    Die Bewegung der Metapher                                                                

  目次

      序  明証性の源泉としての「生き生きした現在」   2

  •  「生き生きした現在」論            3

   2,  J.デリダの「差延différance」理論から     6

      3の1,M.ハイデガーにおける同一性と差異性    11

3の2,ハイデガー著『論理学』での                 16

       時間に纏わる考察について

結論 「生き生きした現在」と一即一切                17

補遺 「華厳経」思想について             19

註                                               21

序,明証性の源泉としての「生き生きした現在」

 

 「現在」知覚されている対象が過去把持や未来予持によるものより鮮明に捉えられるのは、知覚対象が「現在」においてこそ生き生きとした様相の下に捉えられるという事情に拠る。私の自我が対象を「根源(純粋)現象Urphänomen

(1)」という様相の下で捉えるとき、それは最も現実的である。しかし、そうして捉えられたものは、まだ明証的なもの(2)とは言えない。生き生きと知覚されたものが明証的なものとして定立されるためには、なおそれが覚認Nach-

gewahrenされなければならない。だが、覚認された把握内容はその事象そのものからは時間的に隔たっているために原初的な生き生きさを失ってしまっている。

 フッサール現象学に言われる現象学的還元は意識対象をすべて括弧つきの「現在」の下に置く試みである。しかし、ヘルトも語るように、「現象学的還元は、つねに繰り返し発生する素朴な存在者化を括弧に入れていかなければならない」(3)。現象学的反省そのものが時間によって侵食されていることに気づくとき、絶対的な立ちとどまり性の不可能性が露呈される。そのことは「そのつど括弧に入れられてゆく存在者化ないし存在地平を可能にしている根拠として、…より深い還元の段階を明るみにもたらす」(4)ことを要求し、結局は時間性の影響を免れない。

 意味としての理念的対象がもともとはリアルな知覚を起源として構成されたものであるとするなら、そして、自我が原現前呈示Urpräsentationの遂行によってつねに時間的に現在化を繰り返している(5)とするなら、立ちとどまり性と流れることの相克は、また同一的な意味と常に変化している現象の関係でもある。自我の機能によって、あるいは自我の存在において、意味と意味の運動の関係はどのように明らかにされてゆくのだろうか?本拙論の目的はK.ヘルトによって提起されたフッサール現象学の『生き生きした現在』論の問題を端緒として、J.デリダ、M.ハイデガーに言及、展開しつつ、さらには東洋思想の視点から同一性と差異性の問題に触れつつ、その現象としての言葉におけるメタファーの現象を明らかにすることにある。

1,「生き生きした現在」論 

  『メタファーの生起』ではメタファーは「意味するもの」と「意味されるもの」との間の相克であると同時に両者の相互の運動であることを明らかにした。それは、また、言語と事象、あるいは、現出と現出者との間の関係に対応しているが、そうした運動が可能になるのも時間的な「ずれ(差異化)」の発生に基づいている。時間とともに現出者(意味されるもの)はさまざまな相を現わす。そうした現出を、今、ありのままleibhaftに把握するのが知覚である(注1)。しかし、「今」、立ちとどまっている形式において捉えられた原印象性は、同時に、流れつつ、ともに移り行く「今」の支配をも受けている。それゆえ、現在という根源的領野における原印象の立ちとどまり性が現象学的エポケーによって確保されなければならない(注2)。それは、フッサールにとっては、絶対的に流れているという時間客観の支配の下での「立ちとどまり」への要求であり、また、それが対象の統一的把握にとっての必要な条件でもある。「現在」という形式的な枠組みがあって初めて現在化、準現在化といったような作業が可能になる。ところが、時間はつねに流れているがゆえに、「現在」は自我にとって、いつも受け取られるものという受動的性格を帯びることになる。それに対して、自我はその能動的な「原受動的urpassiv」、「先反省的praereflexiv」「先-時間的vor-zeitlich」といった現出以前の自我特有の形式的なものによって「流れることの受動性の克服へと向かおうとする」(3)。そうした枠組みにおいて把握される内実は、しかし、現出と同時に客体として捉えられわけではなく、そのように捉えられるためには後からの覚認と反省を必要とする。そのうえ、そうした自我による作業全体が時間によって不断に侵食していることを考えるなら、「立ちとどまり性」は時間の流れを超えることはできない。現象学的反省でさえ「流れること」の支配下にある。「私は流れる現在として存在している。しかし、私の〈私に-とっての-存在〉は、それ自身、この流れる現在において構成されているのである」(4)。機能する絶対的機軸としての自我でさえ「流れること」のうちにあることは絶対に立ちとどまることの不可能として「生き生きした現在」論のひとつの性格を形成する。(5)「流れること」は機能する自我に対して受動的に生じている。それは「流れること」を「立ちととどまり性」に変更しようとする自発的能動性によって綜合されるはずのものであった。しかし、両者の重なる可能性について、ヘルトはフッサールが「〈流れること〉の動きを、…自我の能動性からの方から考える可能性を禁じている」と述べている(6)。原受動的な流れることは自己時間化においては捉えられないものとしてある。それは作動する自我が永遠に自分自身に到達できない(7)ことと足場を共有している。時間的な流れることとともに、自我は対象化されることなく作動しつづけるからである。

 こうしたなかにあって、フッサールが保持しようと努めるのは自我(遂行者)の同一性(自我極)である。「流れること」を立ちとどまらせる作業である現象学的反省でさえ流れることの支配を受けていることを思い合わせるとき、その体験内容をそもそも可能ならしめる自我の先時間性としての性格が重要なものとして浮き彫りになる。根源的現前Urpräsentationに先行する先時間的なものとしての自我は、現前呈示präsentierenを行うとき、未来地平における未知なるものを自己構成において、すなわち、志向的な生そのものの統一化へと向かう目的論的な過程において、対象的な印象所持に変えようとする(8)。こうして、フッサールの立ちとどまり性への要求は目的論的構造において捉えられるものとなる。あるいは、目的論は立ちとどまり性と統一性をめざすことから生じるとされる(9)。「私は作動するIch fungiere」という事実が合理的であり、したがって私と私によって構成された世界が現に在るという「ことDaß」が目的論的構造においてあると示唆される(10)とされる。つまり、目的論は「私は作動する」との相関において、その内実が、形成する枠組みに対応するものとして現れるはずである。しかし、把握する形式が合理的であるからといって現出する内実そのものが目的論的枠組みにおいてあると言えるのだろうか(11)。目的論が生じる原初的現象は「生き生きした現在」において原印象としてのヒュレー(12)が無志向的素材ではなく、すでに意味として構造化された統一体を形成しているということに負っていて(13)、そこで意味は受動的に原連合と呼ばれる特有な綜合をしている、とされる。しかし、原連合が永遠に対象化されない自我の遂行において、暗々裏に秩序づけられているという可能性はないのであろうか。そうした自我の働きの間に原連合が生じているとするなら、私は私の志向性を意味づけしないままに対象を意味として捉えていることになる。そうした志向的関係において、私の作用である〈意味するもの〉と対象面である〈意味されるもの〉の関係は同一的なものとして成立していると言えるだろうか。能動的自我の原機能は受動性そのもののなかに志向的な形成体が構成されているのを把握する(13)。だが、ヘルトによれば、「流れることをその原受動性において問うということは同時に、自我が、先-時間化しつつ流れつつ、生の流れを生じるにまかせているさなかに、その自我を問うことにほかならないのであるが、こうした問いは謎のままなのである」(15)。 徹底的な内省における目的論的合理性の根拠をフッサールは「神」と呼ぶ(16)。それは現象世界では不可能な絶対的な立ちとどまり性という全一性を表している。全一性という極理念とはロゴスのことであり、「志向的生は、ロゴスに従ってそもそものはじめから「有意味に」経過してゆくのである」(17)。ロゴス的意味とは〈意味すること〉と〈意味されること〉の間の運動を超えるものとしてある絶対的な基準である。デリダは「〈意味される側面〉は、なお〈意味する側面〉から根源的に区別されるかぎり、…それは自己自身であるために〈意味するもの〉を必要としない」(18)と言う。

 〈意味されるもの〉resは、デリダによれば、〈作動する自我〉の領圏を超えている。意味はテロスとしての現出者であり、それは現出において生きた意味となる。「立ちとどまり性」と「流れること」が統一されたとき、目的論としての認識論は完成されるが、実際は、〈意味されるもの〉、すなわち現出者は(内的)時間化の枠外に想定されるがゆえに主観的意味を超えているのである。そうした意味で現出者は意味領野から免れているのではないか、と考えてみることができる。デリダに言わせるなら、意味は「不在」の別名であり、「意味が存在しはじめるや否や、諸々の記号しか存在しないことになる」(19)ものである。ところが、現出が意味として考えられるなら、その意味を附与するのは私の自我であるにしても、その意味の起源はもともと現出者の側にあるはずである。そのように両者は重なりえないものとして同じ「意味」の下にあるのである。そうした視点に立てば、あらゆる現出は意味の下にあらかじめ規定されているということにもなる。フッサールにおける神とはそうした「意味」に他ならないのではないか。そうした神としての意味が対象化されえないのは、「『先』-存在は経験できないし語ることもできない」(20)とフッサール自身によって告白されているのではないか。神とは意味を与えるものである。また、「反省」において希求されているのも「意味するもの」でも「意味されるもの」でもない「意味」そのものなのではないか。

 しかし、そのようにして立ちとどまり性の根拠として神、意味を定立することは、生き生きした把握は「現在」の下にあってのみ生じるという本質的性格をかえって見失わせるのでないか。やはり、そこにはなにがしかの運動が要請されているのではないか。

2、J.デリダの「差延différance」理論から

 超越論的自我は絶対的な機能中心である。「超越論的自我の根源的な機能は現在化」(1)であり、現在化Gegenwärtigungによって、「知覚対象は知覚対象として志向的に把握可能となる」(2)。つまり、現在化は知覚の際に知覚されたものを私の対象とすることであり、それによって客体(〈意味されるもの〉)は私の意味の対象となる。〈意味すること〉と〈意味されること〉は「意味」という同じ領域にあり、初めから同一性に向けて志向されている。しかし、実際に同一化が可能なのは〈意味されるもの〉としての対象が内的である場合のみではないか、と問うことは可能である。同一化(立ちとどまること)の根拠は「神」であったが、「神」について、デリダは、エゴ一般にとってのみ意味があるもので、このことは、神との対話以前に神の神聖がエゴ一般にとって意味がなければならないことを意味している(3)と述べ、神がなんら超越的存在者ではなく、「私」によってあらかじめ意味づけられ要請されたものであることを述べている。「非=現前化あるいは脱=現前化は、現前化と同様に「根源的」である」(4)とデリダは、「超越論的自我の形相は、事実としての超越論的自我なくしては考えられない」(5)と、同一化は本来的に不可能な出来事であり、ただ時間の流れによる分裂と反復のみがあるという思惟様式を持つ。〈意味されるもの〉は、それが〈立ちとどまり性〉という性格をもつ点で、本来的に現実的世界を超えている。ところが、超越論的自我は理念的なものであると同時に事実的領野においてあり(6)、そこでは〈意味されるもの〉が内的なものとして〈意味するもの〉との関係においてある。そこでは〈意味するもの〉はそのもの単独での唯一の独特な現実を持つことなく、ただ〈意味されるもの〉との関係においてのみ、自己自身の反復、像、類似の可能性としてある(7)。時間が産む間=化に関してフッサールが目的論による解決を図るのに対して、デリダは「反復」と言い出す。現象学的反省自体が時間の流れのうちにあるという「完成した認識」にとっての限界を、デリダは、    

 「生きた現在(lebendige Gegenwart)は、フッサールがわれわれをそこへと差し向ける超越論的経験の、普遍的で絶対的な形式である。時間化の運動の諸記述においてこの形式の単純性と支配とを動揺させていないあらゆるものは、超越論的現象学が形而上学に属していることを物語っているように思われる。だが、このことは、抹殺の諸力と妥協せねばならない。根源的時間性と他者への関係の運動においては、フッサールがはっきりと記述しているように、非=現前化(non-présentation)あるいは脱=現前化(dé-présentat-ion)は、現前化と同じ様に「根源的」である。まさにそれゆえに、痕跡についての思惟は、超越論的現象学に還元することもできないし、また、それと手を切ることもできないのだ」(8)と表現する。                             

 目的論、すなわち、「立ちとどまり」と意味(へ)の完成は「時間の流れ」の彼岸にあるかぎり、歴史的意味を帯びない。内的な〈意味されるもの〉、すなわち像は主観性の領域にあるが、しかし、〈意味するもの〉と無縁の超越的な〈意味されるもの〉は時間化の枠外にあることが想定されるがゆえに本来的に「主観的」意味附与を免れている。〈意味するもの〉は、前述したように、〈意味されるもの〉を本来的に必要とするが、目的論にあっては、それゆえ、〈意味されるもの〉は主観的領域を超出した場所にあると想定せざるをえない。歴史のうちにあっては、目的論は永遠に完成しない。そうした矛盾をデリダは、「あるときにはロゴスは、それ自身超越論的歴史を通して自らを表現し、あるときにはそれは、超越論的な歴史性そのものの絶対的な極的真正性でしかない」(9)と述べる。そして、前者をその無限性の豊かさが派生させられる場としての歴史的弁論性のうちでのみ展開される「言語」とし、後者を、その無限性が有限な主観性にとっての真理と現象性に対する開放性にすぎない「隠喩」であるとする。そして、デリダは両者の間にフッサールのジレンマを見る。すなわち、意味が二重の意味を帯びているのは、反省によって立ち返られるべきもの、すなわち、内的なものとして定立するか、それともあらかじめ定立されるテロスとしての現出者とするかという二つの方向性があることによる。ルドルフ・ベルネは『非現在的現在』で「超越的存在の現出と(音といったような)純粋に時間的に規定された対象はより深く存する「絶対的」時間意識において把握される内在的対象である」(10)と両者が内在的対象に還元されることを説き、フッサールが「内在的時間対象を構成する絶対的「意識流」を「知覚」もしくは「代表像」として特徴づけている」(11)と述べている。この場合の代表像とは非現在的、あるいは現在的対象が統一的に把握された内容であり、つまるところ、「今」意識において超越的対象と内在的対象が同一の対象として理念化されたものである。E.カッシーラーは、知覚そのものがある形式契機を含んでいることを述べている(12)が、そうした同一化が生じるのは知覚が一方では経験的対象に向かい、他方では理知的なもの、理念に向かうという対照的な性格を有していることによるのではなかろうか。私たちはなにがしかを知覚すると同時にそれをある枠組みにあるものとして知覚しているのである。それは一見すれば主観と客観の統合のようにも思われるが、それでも、(知覚の)「形式」と(知覚)「内容」は本質的に別個のものであり、知覚されるものは権利上知覚とは無関係に超越的に存立しうるはずである。

 「立ちとどまり性」という同一性は「流れつつ」あるという様相において必然的に脱=現在化する。「感覚的なものである音声的要素や後からの充溢などといったものは、自身に形式を与えてくれる差延作用や対立がなければ、そのものとして現われない」(13)等の理由をもって差異を分節する作用(差延作用)の方が前提するとデリダは語る。それゆえ、最も「(純粋な)痕跡は差延作用である」(14)。では、いったい、デリダは「痕跡」や「反復」でさえ差延されると言うのであろうか。

 「<いま>Bは、<いま>Aの過去把持と<いま>Cの未来把持とによって、そのものとして構成されるであろう。その結果生ずるあらゆる戯れにもかかわらず、三つの<いま>の各々がそれ自身の中にこの構造を再生産するという事実からして、継起性のこのモデルは、<いま>Xがたとえば<いま>Aの位置を占めることを禁ずるであろうし、また、意識には承認し難い後からの効果により一つの経験がその現在そのものにおいて、またそれに直接的には先行しなかったであろうが十分に「先立って」いるような一つの規定によって、規定されるということを禁ずるであろう」(15)。

 「裂節」、すなわち認識(同一的定立)からの無限後退においていったい何が語られるというのであろうか。

 デリダの批判は対象の自由な構成を認容する意識にとっての時間措定(立ちとどまり性、意識)とそれを容赦なく引き裂く世界時間との非両立を告発している。こうした非両立性は、デリダによれば、ただ無限の存在によってのみ現前へと還元される。「〈ある〉は、語の群からなる言語の脱構築に逆らう最初の、もしくは最後の語である」(16)とあるのは、存在と意味との、デリダに言わせるなら代補関係にはあるが決して合致することはない関係を述べたものであり、それゆえ、〈ある〉には「立ちとどまり」性の可能性があるとされる。この「ある」は〈意味するもの〉を超えた超越的な〈意味されるもの〉である。しかし、それは〈意味するもの〉と〈意味されるもの〉との間の戯れを可能にするものとしての超越的な「意味」をも超え出ているのであろうか。そうした問いは、後に言及することになるハイデガーの「存在」(概念としての「意味」?)への関心を喚起せずにはおかない。意味が意味の運動を可能ならしめ、また、反省によって再び立ち戻られるものであると考えられるなら、それは「エクリチュール(文字言語)はパロール(音声言語)に先立ち、またその後に従う」(17)と述べられるときのエクリチュールと同じように、現実世界にとってはよそよそしいものとしてあることになる。

 無差異indifférenceである無限の存在は神であり、ロゴスという絶対的概念であるというロゴス至上主義は、デリダの視点によれば、ひとつのそれだけで完結した形而上学的世界という枠組みを形成し、したがって、私たちが生活世界で経験するその個々の事象を無意味たらしめてしまうのである。それは異「他」的なもの、固有なものを排除する、あるいは、抹消するという暴力に他ならない。本来は、強固な形而上学としてある現前(同一性)からの逸脱、離脱において経験は成立し、そのとき、世界は初めて経験可能なものとして現れるのである。

 差延作用とは現前と不在との戯れであり、不在への必然的移行である。しかしながら、差異が差異を産むという混沌からは事物認識(同定)への展望が開けて来ない。デリダの不在の場に現れる痕跡、そこに代補が発生するという理論は、対象の同一化への努力をなおも語っていることにはならないであろうか。差延作用が最も根源的で同一的なものである「在る」と「意味」に対して働いているとするなら、「経験する」とは同一性と差異性の間の同定不可能な緊張、すなわち、メタファーの運動のことではないか。メタファーとはAがAでありながら、Aとして定立することの不可能を語っている。〈意味するもの〉と〈意味されるもの〉がまだ同一化されず、「意味」そのものではないということがメタファーの原理なのである。「立ちとどまり」性が自己充足、同一性、あるいは形而上学の意識、明証性の意識等々を齎し、それに対して、「流れつつ」が分節の始まりであり、差異性であり、経験の原理としてあるとするなら、<流れること>と<立ちとどまり性>の同時的遂行に「反省の反省」によらない「生き生きとした経験への基礎づけ」があるのではないか。 

 ヘルトは、「時間化された生の流れが、究極的に作動している自我のうちにその起源をもつことができ、機能現在の流れる<立ちとどまり性>のうちで統一されることができるのはいかにしてか、といった問題は、<立ちとどまり性>の<流れること>〔=<立ちとどまり性>自体が、<流れること>という在り方をもつこと〕が考察されないかぎり、根本的に未解決のままである」(18)と、「流れていること」と「立ちとどまり性」の非両立性の両立について言及している。(19)

 

3の1、マルティン・ハイデガーにおける同一性と差異性

 M.ハイデガーにあって、存在は思索を超えている。『ヒューマニズムについて

Über den Humanismus』では、「言葉はもともと存在に属している」(1)と述べられているが、「存在は自らを明るくしながら言葉に達する。存在はいつも言葉への途上に有る」」(2)とは、言葉とともに存在について思索することの限界を物語っているようにも思われる。そうしたハイデガーの理論は、意味との関係において、また、メタファーとの関係においてどのように捉えられるべきなのであろうか。

  「明証とは、自らをこのようなものとして自ら理解する同一性確認の作用である。自らを-理解することはこの同一性確認作用とともに与えられている。……真理とは、思念されているものと直観されるものとの自同性である」(3)。

 「intelligere nihil aliud est quam praesentia quocumque modo.(認識することはいかなる仕方においてであれ、現前以外の何物でもない)」(4)

 ハイデガーにあっては同一性の命題は存在者の存在について語るものである(5)。語るのは、同一性が存在であると同時に思考を含むからであり、その由来をハイデガーはパルメニデスのτο γαρ αυτο νοειν εστιν τε και ειναι.《なぜなら、思考すること自身が存在することでもあるからである。(6)》から引いている。

 ハイデガーにおいては、しかし、思索と存在が同一的なものとしての定立されることはなく、「存在」の優位はつねに保たれている。思索とは存在の真理を見守ることであり、思索されるものへと思いを収集することのうちにある。そうした思索の働きは、ロゴスの「収集するλεγειν」という性格によって可能になる。集めることによって「背後におかれたものυποκειμενον」が現前する。ロゴスはそれが前に横たわらせるものをそのようなものとして前に横たわらせる限りにおいて現前するものをその現前することのうちへと顕わにするentbergen(7)。「思索は言das

Sagenにおいて語られていない存在の語を言葉にもたらす」(8)。あるいは、「語Wortのなかには、とくに語の本質のなかには、この与えるものが蔵されている」(9)と言われる。存在はロゴスによって存在者へと開示される。こうした思惟に従えば、(言葉によって)思索される限りにおいて、存在は意味の対象であり、〈意味されるもの〉のはずであるが、言葉自体は自ら語り出すDie Sprache spricht.という意味において〈意味するもの〉でもある。しかし、存在は言葉をも超えているので、〈意味されるもの〉でも、〈意味するもの〉でもなく、強いて言えば〈意味を与えさせるもの〉としてあるように思われる。すなわち、「意味」させるSinn-lassen、意味を可能にするところの意味そのものである。それゆえ、思索は、それが同じ「意味」の領域にあるという意味で、言葉を通して「存在」そのものを開くことが可能なはずである。「存在の真理への問いは保蔵されたものへ押し入る」(10)ことにあるが、こうした保蔵されたものへの立ち入りは、ハイデガーにあっては、「存在の無化」によって原理的に拒否されている。「無化das Nichtenは存在そのもののなかに現成する」(11)。そのように、存在は「無」という帳に覆われているがゆえに存在者にそのまま開かれることはない。存在は存在者を在らしめ、本有化Ereignisするが、自らは無化することによって存在者からの意味づけを拒否する。存在は存在者からすれば「意味されるもの」であると同時に、それ自体は存在者へと向けて「意味するもの」のはずである。両者の関係は、「存在の存在者」であり、「存在者の存在」として互いに深くかかわっているとされるのだが、その二重性はそれぞれが他方へと来訪しつつも、しかし、重なることはない。それゆえ、「無化」によって存在者には拒絶されている「存在」からの語りは必然的にメタファーとしての戯れにならざるをえない。メタファーとは、ハイデガーによれば、感覚器官では捉えられない思惟における聴従への感覚的なる聞くことや見ることの移し運びである(12)。

 しかし、そもそも、なぜ、ロゴスは語り、わざわざ存在を開示しようとするのか。言Sageとして言葉は、性起しつつ示すが、示すことそれ自体は示されず、語られえないとされる(13)、そうした問いを問うことは現象学の領域を超え出ているのだろうか。「ハイデガーに於ては、何故ということは語られえない。ただ、・・・があるということだけが、つまり存在の歴史はかくあるということだけが、言われえるのみである」(14)と言われる。あるいは、エルアイクニスとしての存在の本質が明らかにされなければならないのは、我々の歴史の使命が明らかにされていないからであると述べられる(15)。歴史とは、ハイデガーによれば、存在の本質への眼差しにおいて把握される存在が存在者に開かれる、その明らめの過程である(16)。開示を待つ根拠は「存在者の使命」としてあるが、それはなにも存在の側で自らを明かさなければならない根拠とはならない。存在が無の帳に覆われているという、もしかしたらハイデガーの根拠のない根拠によって、存在の番人としての人間は不要な不安に駆られているかもしれない。なぜ、無は生じ、あるいは生じなければならないか。「全体としての存在事物がすべり去り、そうしてまさに無が迫りくる故に、無に直面して、あらゆる「何々である」ということが、沈黙する」(17)とされるが、もしかしたら、もともと根拠のない無による、あるいは無としての沈黙が現存在としの人間に根拠のない「不安」をかき立てているのではないか。

 

無は本来、存在の「帳」であることによって存在のまったき開示を「拒否する」ということは前述したが、「無が存在として現成する。dieses Nichts west als

 das Sein.」(18)という言はもともと「存在」と「無」の相容いれ難さを物語っている。それは、「意味」の世界で考えるなら、「意味を与えさせるもの」、〈意味するもの〉と〈意味されるもの〉の間に現前として差異が介在していることを原因としているように思われる。こうした、「差異」に由来する不安は言語によって抹消することは可能であろうか。メタファーとしての言語運動がもし理解され、〈意味するもの〉と〈意味されるもの〉が仮に合致したとしも、不安を呼び起こすものとしての「差異」は無くならないであろうか。『存在と時間Sein und Zeit』で語られるがごとく、「事象そのものを問いたずねるためには言語哲学は断念しなければならない」(19)のであろうか。ハイデガーは、「言葉に固有のこの独自なものを経験することは、途方もなく難しい」(20)と述べている。固有なものとは、言葉が声となって響くということである。ここで、言語はたんに意味における関係ではなくて、それが音声をも含んでいることが想い起される。このことは、先程、メタファーが音声的なものの非音声的なものへの移し変えであると言われたことに対して、なにがしかの意味をあらたに付け加えることにはならないであろうか。「暗がりのなかに隠されている明るさが蒼さ(すべてを凝集させる深み)である。明るさとは、響くことで、根源的に音のことである」(21)。声なき言die lautl-ose Sageは静寂の響きのなかですでに音に向けて用意されている。存在者としての人間の役割が言die Sageに対して応え、語を声に出すdas Lauten des Wortes(22)ことであるとするなら、存在と存在者の間の差異とは音声の有無とその運動ということになる。現前するものが現前することは音となって現れるのである。H.ロムバッハは「現今」の音において「現出」だけでなく、「現出者」も構成されることを述べている(23)。エルアイクニスが人間をそうした用Brauchのなかへと開かしめることを、ハイデガーが言葉に固有の「道Weg」として捉えたのは、ロムバッハが「構造Struktur」の発生の原理を道Taoにおいたこととなんらかの共通点を持つのではないか。しかも両者はともに瞬間的な音に全体という意味を持たせている。ハイデガーは「言が世界-連関に道をつけるbe-wëgenものとしての無音の呼びかけの結集を、私たちは静寂の響das Geläut der Stilleと呼ぶ」(24)と、本質の言葉を定義している。「一音が全体を表現するものであるという思想は、ハイデガーの「静けさは、鐘の最後の響とともに一層静かになる」(25)という思索からも明らかとなる。もし、存在と存在者の間に差異があるとするなら、あるいは、私が私に呼びかけられているとするなら、「意味」を誘発するものとしての「響Geläut」こそが問われなければならない。それは、無音の集合である、意味を促す意味ある沈黙と発「言」を呼び起こすものの間としてある。音には、このように、非感性的なものと感性的なものをつなぐものとしての役割があるように思われるが、いかがであろうか。

 だが、それにしても、「最後の響」が、ハイデガーにあって、真性をありのまま明かすことがないのは、繰り返しになるが、存在が無のヴェールに覆われているということに起因している。

 

 

存在と存在者の間に差異があるとするなら、そこにも問いは生じる。差異生は時間的現象である。しかし、時間とともに差異が発生するのを、現象としては知覚できても、それは、なぜ差異が生じなければならないかという根本的問いに答えるものではない。それに対して、仏教を中心とする東洋思想にあっては、有は同時に無であるからと答えることによって、その問いを乗り超える。つまり、有(仮相)は必然的に無である。存在は実相において無であり、それが同時に有という現象を現わしている。無は有として仮象している。字義として、あるいは、様相として、無は有ではないが、しかし、それにもかかわらず、必然的に有である。そうした差異を(本来、仮相としての)存在は存在としての同一性のうちに担っている。ケーレ以前、たとえば、『存在と時間Sein und Zeit』では、無(死)と生との間に時間的距離が置かれたために現存在としての存在者は存在には成りえないものとして、差異を抹消不可能な差異として定立した(26)。しかし、死は生の彼岸にあるのではなく、本来、生は死の上に、死とともに成立している。生きることとは死ぬことであるとは、逆説的ではあるが、仏教思想における死生観を表している。同一性は同時に差異性であるとする東洋的思惟は、また、無について次のように説明することが可能である。すなわち、同一性とは、すべては本来的に無であるということであり、それは仮有の有として、つまり、本来、同一的なものとして自らを差異化し、現象する。同一性(自己充足)は差異性(自己差異化、露呈、自己疎外)としてあり、また、逆に、差異性は同一性としてある。同一性は同一的なままで必然的に差異化されている。それゆえ、同一化と差異生の間に時間的前後はない。そこから予期される現象は同一性と差異性の必然的共在であり、もし、無と仮相としての有の間に差異を定立し、その間になにがしかの活動が働いているとするなら、それは同一化と差異化の同時的遂行であろう。

 華厳経にいう「性起」とは、本性(実性)が起こっている、の意味で、ものの本性がそのまま現れていることを示している。そこでは、本来不起なる真如の体性そのものがそのまま現起している。真如は、そうして、「変わらない(不変)」という性格と、「縁に従う(随縁)」という性格を併せ持っている。仮の存在は、「無」性であるからこそ、縁に従い生じる。縁をもつとは、相相応し(相即)、入りあう(相入)ことである。そうして、一つの変化の上にはあらゆる事態の変化が含まれているので、すべては差別化されたものでありながら、同時に同一的なのである。圜融無礙とは、一切のものが差別の相をとりながら、平等という真理を体現していることである。西洋的思惟によれば、一と十の間には距離があるが、華厳思想では、一がそのまま十であり、それゆえ、一に十が含まれていると考える。そうした思惟(無分別智)に従えば、「私が作動する」そのとき、すなわち、知覚作用がはたらくとき、反省作用が働く前にそれがそのまま認識されるということにもなる。

 ハイデガーは、omne ens est unum(すべての有るものは一なるものである)(27)、εν παντα(ひとつのものは全部である)(28)(29)に言及して、存在、ロゴス、Eνとそこからの存在者の生起との間に差異を置いた。

 現存在としての私は時間的流れのうちにある。それに対して、時間は、ハイデガーにあっては、存在者の根底にあって存在者にとっての「到来」、「既在」、「現成」を齎す役割を有するので、時間それ自身は世界には齎されない、とされる。無は存在の帳であるとは、すでに述べられたことであるが、時は「現在」という視点からは、「最早」今で「無い」、「未だ」今で「無い」ものとして性格づけられ、それゆえ、やはり無によって覆い隠されている(30)。時間は、エスからの俯瞰による把握が期待されるが、そして、自我からではなく、時空を超えた視点から事物が把握されることが期待されるが、しかし、そうした把握も、そもそも存在と時間が「無」の向こう側に覆蔵されていることを考えるとき、存在者にとっては彼岸の事象と映らざるをえないのではないか。把握することの困難はそもそも有と無の分離から生じている。エスは、存在「と」時間を与える(31)ので、それぞれの出来事のかかわりあいの中でのみエスは最もよく現れると言われる。それは存在と時間がそれぞれに現象を齎している事態ではなく、空間と時間が交わっている時である(32)。時とは、ハイデガーの用語を使用すれば、既有、将来が現在にもたらされる時であり、それらが独自な仕方で現前する瞬間である。時間が凝縮する点、すなわち、瞬間(刹那)において漫然とした現象を超えた、あるいは有為転変を凝縮した存在が有る、と期待されなければならない。今という瞬間は、ハイデガー的思惟に従うなら、過去と未来に対しての拒絶であるということによって、また過去と未来なのであり(33)、その「今」は空間が再生され、予期される時でもある。今は現象が凝縮するという意味で空間が集う場である(34)。

  仏教思想では時間と空間の凝縮する場としてゼロを置く。それは、事物の最も輝き生きる瞬間であるとされる。時空の交わる場である「ゼロ」は概念(実在)としてではなく、時としてある「私」と、同じく時としてある「世界」、「現象」との間の緊張として有る。両者が共に輝く刹那(瞬間)、その妙がかみ合うところに一切が輝く。ハイデガーの「性起(エルアイクニス)」も、本来、そうした概念を呈示しているのではないか。「時と有とを、それらの自性の内へ、すなわち、それらの共属のうちへ定めているもの、それを私たちは性起と名づける」(35)という言葉からそうした思惟をうかがうことは不可能であろうか。その刹那、差異性は同時に同一性となる。この「只今」を理解するというのは、「空(無)」を理解するということである。一即一切の「一」はゼロであり、一念であり、一切は「十」、すなわち万象である。事物は現象(万象)としてEntbergen(顕現)するかぎりにおいて「有」を経るが、それは間断なき、そして終焉なき「流れ」のうちにあり転変するかぎりにおいて本質(実相)を持た「無」い。しかし、それは現象世界では無で「無」く有であり、有そのものでも「無」い。それがゆえに有でも無でも「無」い(36)。

3の2,ハイデガー著『論理学』での時間に纏わる考察について問い

 「時間」は或るもの一般の出会われる事(1)を可能にする制約であり、それに対して、「我思う」は出会われるもの一般がそれに出会いうるところの「何に対して」ということを可能にする制約である(2)。両者は、つまり、時と自己とは、眼差しを向けることの「どこへ」である。時間は可視的なものとはならず、たとえば、今は、常に「……するところの今」として理解される。だから、今には或るものへ向けてauf zuという性格が属していて、断片の今Jetztfragmentにはいかなる現象学的意味も帰属しないとハイデガーは語る。彼は「立ちとどまり性には意味がなく、将来に向けて、「……に向けて」の許にあるときにのみ時間の形象的綜合(3)意味が持ち込まれる、と考えるのである。しかしながら、彼は一方では今継起を、或るものを見えしめる、現前せしめるものとしても考えている。つまり、今は、……に向けて或るものへと指示しつつ或るものを見えせしめ、そして、そのことによって自己を触発するのである。そこで、生き生きと現前せしめられるものは現存在である。「今」によって現存在は自らを語り表す(4)。すなわち、実存からの把握である。差異性と同一性の矛盾対等をもって、差異からの問いかけが、同一性を明確には理解させるものとはならないとすると、存在者からの問いが存在そのものを明らかにするとは考えられなくなるのではないか。

 ところで、フッサールにあっては、時間とともに流れている対象を把握するする自我自体が時間のうちにあるというアポリアがあったが、ハイデガーもそれと類似の問いかけをしている。すなわち、どのようにして時間のうちに有るものとしての自己が、とりわけこの時間的な我思うとして自己自身を触発し、そのことにより時間を造り出すことになるのか、と(5)。これに対して、彼は、我思うは時間の内に有るのではなく、時間それ自身である、と答える。そのようにして、現前せしめることの様態である、と答えている。『存在と時間』では現存在を「関心」として定立していたが、その意味では第37節で、彼が、「関心それ自身が時間である」と述べているのには整合性がある。しかし、「我思う」、「関心」が時とともに有るとすれば、私は自分の思惟をどのようにしてそれとして、しかじかのものとして確認するのであろうか。どのようにして自分の想いに想いを寄せるのであろうか。それは自己を同一的なものとして、identityとして、確認することを不可能ならしめ、それゆえ、自己の分裂を齎しかねないのではないか。

 

結論、「生き生きした現在」と一即一切

*「一念の間に観察してみると、来るものもなく、去るものもなく、現在もまたとどまらない。ありのままの実相にしたがい、よくわきまえてそれをしり、究極の姿を体得すれば、仏の自由自在の力を得て、十方の世界をみることができる。」華厳経、如来光明覚品

 差異化による変容と、対象化、同一化との間に生じる相克が、十然な統一的把握を妨げているとするなら、要請されるのは、差異性を同時に同一性として把握する試みである。そうした試みを私たちは「一即一切」のうちに見出すことができる。 自己自身は反省によって準現在化され、それを機能する自我は立ちとどまり性において遍時間的なものとして把握する。反省は至るところに及び、あらゆる(時の)自我-現在の全体性を俯瞰し、自発的にそれら自我-現在の同一性を措定する。その準現在化においては、準現在化されている自我と根源的原本的な自我との同一性が導かれる(1)、とヘルトは言う。だが、両者が同一化されるとき、原本的な自我は反省されたものとしても有ることとなり、すなわち、その次の「今」においては両者が併せてノエマとなってノエシスの対象となる。ノエシスとノエマという自我の生の全体的統一は、理念としては意識され、理解されるものの、その現実化は自我が時間的流れの地平にある限り未完のままである。ヘルトは、自我は、<とどまる今>の理念視において根源的に作動している自我の匿名性という性格も飛び越えることができる(2)と述べているが、矛盾相克を含む全体が「瞬間(刹那)」に体現するという思惟は華厳思想のそれと共有しているのではないか。彼は、フッサールが過去把持と未来予持からの抽象によって、「最も本来的な現在の核Kern

eigentlichster Gegenwart」に達することを呈示している(3)と紹介している。瞬間は一即一切という理念において、すべてが含まれるという意味でまた永遠でもある。

  <流れること>をその原受動性において問うということは、…<……生の流れを生じるままにまかせている>さなかに、自我を問うことであるが、こうした問いは謎のままである(4)とヘルトは述べているが、前反省的事象はその事象の現れと同時に反省的に把握することはできない。そうした相いれ難さは「自我」をあらかじめ定立し、主客分離の下で同一性と差異性を別のものとして区別することに起因している。しかし、そうした状況下では、本論で述べたように、「意味されるもの」を生き生きと把握することはできない。それゆえ、希求される把握様式は同一性が同時に差異性であるというような把握である。同一化が同時に差異化である、とは、主客分離以前の世界へと立ちもどるような認識である。そうした認識は時間と空間が限りなくゼロに近づく場所において、つまり、諸現象が集約される場所において成立する。事物の生き生きした把握にとって必要なのは、同一性がすなわち差異性であるという把握を可能にする無そのものとの関わりにおいて関係全体を捉えることである。それは無と有の区別の下での考察ではなく、無が同時に有でもあるという下での対象把握である。無矛盾性に依拠する形式的論理学に対して、仏教思想は非思量(5)をもって現象世界を思索する。そうした思惟にとって、事物はもともと無という相の下にある、とされる。

 「究極的に作動する自我の背後には、もはやそれ以上に根源的な自我を尋ねることはない」(6)とヘルトは記述している。自我は機能現在であるかぎり、自らを対象化して捉えることはできない。自我は機能する限り、匿名性、つまり、認識できないものを含むのであり、したがって、自我を含めて全体をそれとして受容するにはそうした能動的働きかけを一度止めなければならない(7)。そこに期待されるのは、他者ではない自我が、しかしそれでも他者であるような、また、自然(世界)ではない自我がそれでも自然であるような共生と融和世界の開けである。機能しているとき、私は私では「無」く、他で「有」り、他では「無」く、私で「有」る。そこでは、私と対象、自我と他者が対立していながら対立していない次元が現れる。                  

 1,自我が流れのうちにあるということ、そして、それを立ちとどまらせる反省がその流れを俯瞰する位置に立ちながらやはり流れのうちにあるということ。

 2,「私は作動する」が匿名的なものとして現れると同様に超越論的共同化のうちで他者の「私は作動する」も匿名的なものとして現れるということ。

 こうした記述は絶対的事実としての自我(他我)と超越論的自我との相克を表しており、超越論的自我が、つまるところ、自我の場で構成される限り自我という枠組みは撤去されず、結局は「流れつつ」と「立ちとどまる」というアポリアは解消されないように思われる。そこで要請されるのは自我が同時に非我であるような「私」であり、言うなれば「超越論的非我」(8)といったような自我を定立することである。求められているのは一即一切を超越論的非我として観取することにある。自我という枠組みの撤去は主客未分への遡及、無への自己没却等々として考えられる。そこには、もはや、自我の意識はない。そこに至って、おそらく明証的なものがたんに意識されるだけではなく、それとして生きられる次元が開かれる。なぜなら、そこに差異性が同一性であるという無分別智が成立しているからである。(自我の活動性である)〈意味すること〉の否定は〈意味されること〉であり、さらには〈意味〉である。しかし、また〈意味すること〉が否定されると同時に肯定されることによって、それは、また、〈意味すること〉そのものなのである。それゆえ、〈意味すること〉は〈意味されること〉であり、〈意味〉である。「生き生きした現在」論に纏わるアポリアはひとえに(科学的)理性に頼むことによっては解答を得ない。ちなみに、ヘルトの引用によれば、目的論に関して、フッサールは、それは経験可能な領域を超えていて、究極の理念統一は超-実在性Überrealität、超-真実性Überwahrheit、超-現実性Überwirkl-ichkeit、超-即-自 Über-an-sichである(9)と語っているという。このことは一体何を物語っているのだろうか。究極の(目的論)の根拠として神が持ち出されているのは何を示唆しているのだろうか。なるほど匿名的な〈とどまる今〉の探求はその完結を許すものではない(10)。とすれば、自我を基底とする哲学は最後まで思いなしの域を超え出ないということになる。

 一即一切とは、経験と明証性が邂逅する場である。

補遺、「華厳経」思想について

 仏(如来、真如より来て衆生を教え導く活動的な仏)は三世(過去、現在、未来)十方(東、南、西、北、東南、西南、西北、東北、下、上)を一念において感得する。仏の説く真理は、はなはだ深くて、色も形もない。その境界は、すべての煩悩をこえ、すべての我執をはなれて、空寂、清浄である。あるとき、仏(覚者、如来と同じように用いられる)は菩薩の願いを知り、十方一切の仏を供養した。菩薩の願いとは一切衆生をすくいまもり、善を回向すること。仏は一切衆生の無数の想念を一念となし、仏身の毛の孔から放たれる一つの光(光明)によって無量無辺に知慧を施す。また、菩薩は(解脱)の回向のうちで、無限の時間を一念となし、一切衆生のこころを一念となし、一切諸法を一法となし、無量の音声を一語となし、無数の真理を一つの真理で述べ伝える。菩薩は一本の毛の孔に、(三世)十方の世界を見る。一切衆生のこころは、過去、未来、現在のなかにあるが、仏の知慧においては一微塵のうちにすべてを照見する。そうした真理に想いを馳せることによって得られるのはすべてを受容し、何事にも捕らわれないこころである。自由自在の境地がそこに開かれてくる。ところで、衆生の側からすれば、菩薩の回向を受け止め、自己の仏性に目覚め、仏法を学び、菩薩の行をおさめなければ、そうした真理を会得し、こころ安らかな境地に至ることはできない。ところが、菩薩に呼応するにあたって、衆生にとってやっかいなのは、真理は言葉で聞くことができないところにある。「このように真理をさとれば、そのような真理もまた、存在しない。なぜなら、すべては、ことばであらわすことができず、夢のごとく、ひびきのごとく、鏡中の影像のごとく、しかも因縁宿業にたがわないからである」(十回向品)。

 西洋哲学は、一般に語ることとその書記(エクリチュール)において真理を表すのに対して、東洋思想では、真理は沈黙(無)に求める。教主ヴィルシャナ仏自身は、経典のなかで自ら説くことはない。ただ光明を放つだけである。キリストは語った。だが仏陀は坐る(只管打坐)のみである。

序、明証性の源泉としての「生き生きした現在」

注1、Klaus Held”Lebendigegenwart“Martinus Nijhoff,Den Haag,1966,S68, 新田義弘他訳『生き生きした現在』北斗出版、96頁                  

注2、明証性は「十全的adäquat(反省的知覚において知られるものの直接に 直観的な、<みずから、そこにSelbst-da>についての意識を持ち、知覚の本 質である充実に到達するとき得られる明証性、或る知られたものが、しばら くのあいだそれの「みずからそこに」という様態において示される)」で「必 当然的、必証的apodiktisch(もはや疑わしいものになりえない確実性に達 した明証性、それが「別様ではありえない」という様態において意識される) 」である、と言われる。 

注3、”Lebendige Gegenwart“S.95,邦訳131頁

注4、ibid.S.95,邦訳132頁

注5、vgl.ibid.S.44,45,邦訳66頁

1,「生き生きした現在」論

注1、Husserliana(以下、Hua.と略す).Bd.ⅩⅥ,”Ding u.Raum“,S.15,「知覚 の本質的性格は客体Objektのありのままの現在にleibhaftige Gegenwartつ いての意識であること、すなわち、それについての現象であることである」。注2、vgl.”Lebendige Gegenwart“S.46,邦訳68頁

注3、ibid.S.55,邦訳81頁

注4、ibid.S.115,邦訳162頁、ヘルトによるC草稿からの引用

注5、そして、その不可能性は、「私は作動する」の匿名性を浮き出たせる。 「私は作動する」ということ自体は反省の反省によってしか捉えることができ ず、永遠に対象化できない。しかし、「私は作動する」が合理的であるから といって、すなわち、捉える形式が合理的であるからといって、その内実と しての事実が目的論の枠組みにおいてあると言えるだろうか?

注6、”Lebendige Gegenwart“,S.102,邦訳142頁

注7、vgl.ibid.S.132,邦訳186頁           

注8、vgl.ibid.S.177,邦訳244頁           

注9、ibid.S.177,178,邦訳245頁

注10、もしその過程において主観性恣意性が入り込むなら目的論は目的論では  なくなる?

注11、印象に関しては、IdeenⅡ,S.336に「印象という語は根源的感覚にのみ適 応する。印象は、それ自体、根源的に「そこ」にあり、自我に前所与され、 自我に疎遠で、触発するものとしてという仕方で自我に提示するものである ことをよく表現している」という記述がある。

注12、新田義弘著『現代哲学』白菁社 280頁参照

注13、Vgl.Hua.Ⅺ,S.64,邦訳、98頁

注14、Lebendige Gegenwart,S.103,邦訳144頁

注15、ibid.S.180,邦訳248頁

注16、ibid.S.177,邦訳244頁

注17、J.デリダ『言語学と書差学』上,現代思潮社,147頁

注18、 同上、103頁

注19、”Lebendige Gegenwart“S.103,邦訳144頁

2、J.デリダの「差延différance」理論から

注1、”Lebendige Gegenwart“S.61,邦訳87頁

注2、ibid.S.33,邦訳51頁

注3、J.デリダ著『エクリチュールと差異』上、法政大学出版局、255頁

注4、J.デリダ著『グラマトロジーについて』上、現代思潮社、123,124頁

注5、”Lebendige Gegenwart“S.147,邦訳206頁

注6、自我が現実的世界にあって遂行の中心(極)として自らを保持しえるの は、それが身体を担っているからに他ならず、ここで「生き生きした現在」 論は身体論との関係さえ持つに至る。それに関しては別の箇所で論じること にするが、ここに「生き生きした現在論」は「自我の生動性」のみではなく、 生活世界の問いとしても立てられることが明らかになる。

注7、『グラマトロジーについて』上、190頁参照

注8、同上、123,124頁

注9、デリダ『幾何学の起源、序説』、青土社、243頁

注10、R.Bernet”Die ungegenwärtige Gegenwart.Anwesenheit in Husserls An  alyse des Zeitbewußtseins“S.38,Phänomenologische Forschungen Nr.14

注11、ibid.

注12、vgl.E.Cassirer”Philosophie der symbolischen Formen Ⅰ“Wissenschaf tliche Buchgesellschaft,Darmstadt,1985,S.97

注13、『グラマトロジーについて』上。124頁

注14、同上、125頁

注15、同上、137,138頁

注16、J.デリダ『声と現象』理想社、140頁

注17、『グラマトロジーについて』下、186頁

注18、”Lebendige Gegenwart“S.144,邦訳201頁

注19、ところで、ラントグレーベは機能する自我の存在、すべての機能の絶対 的出発点である自我の存在が根源的事実であることを述べている(vgl.Phän omenologische Analyse und Dialektik,in:Dialektik und Genesis in der  Phänomenologie(Phänomenologische Forschungen 10),hrsg.von E.W.Orth,F reiburg/München 1980,S.68)が、絶対的事実性 absolutes Faktumとしての 究極の自我機能として機能する自我はつねに現在的である。他方、自我は身 体的存在であり、その意味で現実的な流れのうちにある。差異生は多面的で あり、そうして考えてゆくとき、〈とどまる今〉と〈立ちととどまり〉に起 因する差異の問題は克服困難な袋小路に際限無く入り込んでゆくように思わ れる。3、マルティン・ハイデガーにおける同一性と差異性

注1、M.Heidegger“Über den Humanismus“(以下、Ü.d.H.と略す)Vittorio Klos  termann,Frankfurt.a.  M.,1947,S.9,佐々木一義訳『ヒューマニズムについ  て』理想社、20頁

注2、ibid.S.45,邦訳、99頁             

注3、M.Heidegger,Die Gesamtausgabe,Bd21″Logik“Vittorio Klostermann,Fr ankfurt a.M.1976,S.108,邦訳『論理学』創文社、114頁、

注4、ibid.S.122,123.邦訳129,130頁、

注5、M.Heidegger,”Identität und Differenz(以下、I.u.D.と略す)“Neske,

  Tübigen,1957,S.16、  大江精志郎訳『同一性と差異性』理想社,9頁

注6、この命題を大江精志郎氏は《同じものは即ちVernehmen〔観取の意〕(思考) であるとともにまた存在である》と訳している。αυτοsは自同者(否定性との 奇妙な結託者)の意味でselbst自我のドイツ的概念とは異なる(デリダ著『エ クリチュールと差異』のうち「暴力と形而上学」参照のこと)。不定詞νοει νの能動態活用現在単数一人称νοεωはto see so as to remark or discern『L iddell and Scott』Oxford University Pressの意味。remarkは気づく、認め る、書くの意で総じて対象をそれとして、すなわち同一性として認めること であり、それに対して、discern(識別するの意)は差異を動機としている。つ まり「思考する」は同一性と差異性との間の緊張においてあることをνοεωは 示している。  

注7、vgl.M.Heidegger”Logos,Moira,Aletheia“in”Vorträge und AufsätzeⅢ

 “Günther Neske Pfullingen,Tübingen,1954

注8、M.Heidegger“Über den Humanismus,S.45、邦訳98,99頁

注9、M.Heidegger”Unterwegs zur Sprache(以後、U.z.S.と略す)“Neske,

  Stuttgart,1993,S.193   

注10、M.Heidegger,Die Gesamtausgabe,Bd.65,”Beiträge zur Philosophie(以  下、B.z.P.と略す)“,  1994,S.6

注11、Ü.d.H.S.43,邦訳94頁

注12、M.Heidegger、Die Gesamtausgabe,Bd.10,”Der Satz von Grunde“Neske,

  Pfullingen,S.70,辻村公一訳『根拠律』第6時限、創文社、97頁    

注13、辻村公一『ハイデガーの思索』創文社295,296頁参照

注14、M.Heidegger,辻村公一訳『講演「時と有」についてのセミナーの記録』  99頁

注15、B.z.P.S.11

注16、vgl.ibid.S.32

注17、M.Heidegger、”Was ist Metaphysik?“Klostermann,Frankfurt.a.M.,

  1955,S.32,大江精志郎訳『形而上学とは何か』理想社、49頁

注18、ibid.S.45,邦訳71頁

注19、M.Heidegger,vgl.Die Gesamtausgabe,Bd2″Sein und Zeit“1977,S.166,

  細谷貞雄他訳『存在と時間』理想社、278頁

注20、U.z.S.S.205

注21、ibid.S.44

注22、vgl.ibid.S.260

注23、H.Rombach”Das Phänomen Phänomen“in”Neuere Entwicklungen des Phän omenbegliffs,Phänomenologische Forschungen 9“Verlag Karl Alber,Freib urg/München,1980,S.12

注24、U.z.S.,S215

注25、M.Heidegger,Gesamtausgabe Bd.13,”Feldweg“,S.89

注26、時間性は根源的な脱自そのものAußer-sichであり、それは「到来」、「既 在性」、「現成」は脱自性Ekstasenとして特徴づけられる。

注27、M.Heidegger,Gesamtausgabe Bd.51,”Grundbegriffe“,1981,S.71,邦訳,  『根本諸概念』、75頁

注28、I.u.D.S.53,邦訳53頁

注29、「一は多であり、多は一であり、…非存在は存在であり、存在は非存在 であり、…」華厳経、菩薩十住品。「一」は一念の意味でもある。「至ると ころにあってどこにもない(ü-berall und nirgents)」という遍時間性は 仏教思想そのものである。

注30、エルアイクニスは自己隠蔽としての拒絶である。B.z.P.vgl.S.23,24

注31、『時と有』9頁

注32、時と有とを、それらの自性の内へ、すなはちそれらの共属のうちへ定め  ているもの、それを我々は性起と名附ける。『時と有』38頁

注33、『時と有』22頁

注34、ある時はまたすべての時である、の意。道元禅師の説法を要約すると、 「存在はすべて時を有し、時であるがゆえに、時の装いとしての光明がある。 自己も、また時である。おなじ時に別の発心があることもあれば、おなじ発 心が別のあるということもあるように、自己をおし並べて自己がそれを見る からである。この世界は、自己をおしひろげて全世界となすが、大地のいた るところにさまざまな現象があり、また、いろいろの草木があり、そのなか にはわかる現象もわからぬ現象も、わからぬ草木もわかる草木もある。とこ ろで、存在はすべて時であった。どこまでいっても、そのような時ばかりで あるから、ある時はまたすべての時である」ということになる。時はすでに 有(bhava、bei-ng)である、という仏教の考え方から「有時(うじ)」という言 葉が生じた。つまり、「時すでに有なり」、「有はみな時なり」の意味であ る。去来する作用を保ちつつ、なお我にある時の今がある。それが、有時で ある。ちなみに、道元禅師は「生き生きした現在」に類似して「而今(にこ ん)」を説く。それは、今という今というほどの意味で。「有時の而今」と いえば、ある時にしてしかも「いま」なる時という意味である。(道元『正 法眼蔵』有時)

注35、「時と有」38頁

注36、般若心経「色即是空 空即是色」

3の2,ハイデガー著”Logik(論理学)“での時間にまつわる考察について

注1、「どこへwohin」は純粋継起であり、時間である。この様態のうちで自 己は自己自身から他なるもの-「どこへ」-を自己に出会わしめるのであり、 自己を触発せしめる。”Logik“第23,28節

注2、ibid.第29節

注3、 synthesis intellectualis、形姿、像を製作して実体などを直観化す ること

注4、”Logik“第36節                 

注5、ibid.第36節

結論、「生き生きした現在」と一即一切

注1、vgl.”Lebendige Gegenwart“S.104-118(邦訳146-166頁)、とくに

 S.114-115(邦訳161頁)

注2、ibid.S.129,邦訳181頁

注3、ibid.S.129,邦訳182頁

注4、ibid.S.103,邦訳144頁

注5、非思量は思量、すなわち、散乱、それに不思量、すなわち昏沈を超えた 領域。そこでは人は雑念にも昏沈にも捕らわれない(横浜総持寺東老師弁)。注6、”Lebendige Gegenwart“S.149,邦訳208頁

注7、「一杯の砂糖水をこしらえようとする場合、とにもかくにも砂糖が溶け るのを待たねばならない。この小さな事実の教えるところは大きい」(ベル グソン『創造的進化』第1章)。文中の「止めなければならない」は対象をあ りのままに受容するという意味においてである。ベルグソンに即して言えば、 仏教は待つ(止める)とも、待たないとも態度を決定しないし、そのどちら にもこだわらない。むしろ、それより一歩退いたところで万象を照見する、 と言えるのではないか。

注8、受動的に世界に映されつつ、しかし、それでいて、なお世界を眼差すこ とを止めない「私」、というほどの意味になろうか。             

注9、”Lebendige Gegenwart“S.179,邦訳247頁

注10、ibid.S.174


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