運命への愛 amor fati/生きることの意味


/最近、50年近く続けてきたライフワークに一応の終止符を打ち、 さて、今後は如何なる意味づけを携えて人生というものを歩んでゆくべきなのか、 思案にくれてしまった。

 東日本震災から14年、何本か番組とされたなかで、福島で、一人、牛飼いをしている老父が取り上げられていた。牛は185頭、全頭被爆していて売物にはならない。その意味では牛の世話は意味のない仕事である。 老父は問う、意味がないことの意味とは何か。

古代哲学で語られ、また一般の常識ともなっている「真理とは存在と思惟の一致である」は、必ずしも「生きる」を支えるものとはならない。世俗的には、「生きる」意味には価値が含まれていなければならないとされている。 もし豊かな生活を望むなら、カネが価値となる。金銭は手段、道具であり、意味づけ、価値づけることを可能にする。しかし、金銭は貪欲(とんよく)を招きかねない。昂じ、倒逆して、金銭という価値基準が先行し、もし物欲に支配されることにでもなれば、「人生」は意味の背後へと後退してしまうのではないか。

 「有(在)る」とは何か、それ自体に何か、意味があるのか。長年、哲学を学び続けて結論としたことを、一言に還元するなら、有は無のなかでのみ有意味になるということだった。 金銭、愉楽といったような有のみを求める生に、おそらく真理は宿らない 「生きる」は、無意味のなかからしか浮き彫りにされない 「人生」にとって酷ではあるが、無意味には、ときに、絶望という反意味さえ含まれているように思われる

牛飼いを助力する奇特な方がいる

そのお人が語ることには、 カネにならない仕事でも、「死ね」はありえない

有と無とは矛盾する概念である 牛飼い夫は語る、 死ぬのは仕方がない、大変だけど頑張るしかない。 矛盾のなかで、生きて逃げずにどうしたらいいかを考え、道を探るしかない。 それでも牛飼いとしての意味はある、 そういう牧場があったということで俺はイイと思う。

・・・また、ひとつ、教えられた気がした

しかし、さらに考える、 為すべきことがあるなら幸いである しかし、それさえ失われたとき、人はいかに「生きる」に意味を見出すのか、 運命への愛 人は運命から逃れることはできない それを甘んじて受け入れるとき、意味の側から意味は現出するのではないかと、想像する 広大な宇宙からしてみれば、 小さな砂粒ひとつにも値しないような、 小さな生 しかし、せめてその意味を知りたいと、 もし、願うとするなら、 まずは、欲を捨て、 意味そのものを否定し、 そして、問い続けなければならない


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